インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが自分の好きな珈琲や読んだ本に食べたものについて思い出として書き残そうと思います

森美術館における「会田誠展」の性暴力展示に抗議を、について私的見解

 Twitterで話題になっているこの問題について自分の考えを述べてみたいと思う。だいぶ感情的になってしまっているが、これも記録だと思って公開することにした。

 今回問題とされているのは会田誠の「犬」と題された以下のような作品に対して、この作品は「児童ポルノであり、少女に対する性的虐待、商業的性搾取」*1であるとして抗議されたことだと前提して話をすすめます。
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 この問題に対して私が注目するのは、まず抗議をした方々の解釈に対して、そして彼らがその解釈に則って抗議をしたことについてである。端的にいえば、彼らの行動は間違っているのかについて私的見解を述べてみたいと思います。

作品に対する解釈について

 抗議をした方は会田誠の「犬」と題された作品を児童ポルノとして見ている。彼らの言葉を借りれば、会田誠の一連の作品は「少女に対する性的搾取に積極的に関与」しており、「少女および女性一般を性的に従属的な存在として扱っている社会の支配的価値観に全面的に迎合し、それをいっそう推進するものに他」ならないとして、森美術館に抗議をし作品の展示の撤去を最終的には求めていると理解できる。
 まずTLでこの問題の話題として語られているのは、上記のような作品解釈は誤りであり愚かなものであるという態度の発言が幾つかみられた。しかし果たして、こうした彼らの作品解釈は誤っているだろうか。残念ながら、彼らの作品解釈を誤っているという根拠を提示するのは困難であろうと考えられる。たとえ作者が、この解釈は間違っていると公にしても、既に作品は作者の手を離れ人々の自由な解釈の目に晒されてしまっている以上、この作品の解釈に正しいものはあるといえるどうかは実に論争的なものとなるだろう。たしかに、多くの同時代の方の賛同を得られる一定の解釈はありえるだろうが*2、そうでない解釈の可能性は常に開かれているだろう。特に芸術作品となれば尚更その傾向はたかくなってしまうのではないか。ある解釈を間違っていると断定できる、正しい読みを正当化できる権威や根拠をどこに置くことが出来るだろうか。またその根拠をもって、彼らの発言を打ち消すことは正当化できるであろうか私には疑問である。
 つまり何が言いたいかというと、今回の抗議に対して、抗議した者の解釈は間違っている馬鹿だと揶揄しても、問題は一切解決しないだろうと私は考えるということだ。逆に一定の解釈しか認めない狭さに胡座をかいてしまえば、それこそ敗北は免れ得ない結果になるだろう。抗議した方の解釈がかなり屈折したものだとしても、そうした解釈は十分にあり得ると考えられる。自由な解釈から導き出された理解を常識や一般的に考えれば誤った理解であると否認したとしても、抗議の声が止むことは期待できないだろう。

抗議という運動について

 次にそれでは彼らが自らの解釈に則って抗議という運動に乗り出したことについて述べてみたい。
 こうした行動に対してネットなどでは冷笑的な態度の者もいたが、それは誤りであるだろう。また彼らの抗議を表現の自由を侵害するものであり、認められないのではないかという問いかけがあった。
 確かに彼らの抗議は作品の撤回を求めているものであるが、それが即ち表現の自由を侵害するものであるだろうか。その判断は早急すぎるだろう。彼らの行動が表現の自由を制限しようと意図したものであったとしても、実際に表現の自由の可能性が開かれている限り、その抗議の声もまた自由として認められねばならないのではないか。抗議した者達は少女や女性たちの自由を拡大するために、彼女らの権利が踏み躙られないために行動したのだと十分に考えることもできるだろう。
 自由や権利は人間に生まれながらにして備わっているものだとしても、自由や権利はもともと運動によって戦いによって市民が勝ち取ってきたものでもある。彼らの考える自由が、私の考える自由と違うからと言ってその自由のための行動の禁止を求めることの方が許されないと私は考える。
 彼らの抗議は確かに表現の自由をいくらか侵害する可能性があるが、その可能性を持って運動することを否認することは許されないだろう。そして幾らか公開する場所や機会としての表現の自由が害されたとしても、作者が自由な作品を描く自由や限定的に公開する自由まで侵害されるわけではないのであると考え得るのだから、やはり彼らの行動を否認することは自由主義社会においては決して許されない行為であると私は判断する。
 もちろん、抗議した者達の解釈は誤りであり、この作品の意図は云々でありあなた達は誤解していると訴え、抗議者と戦うことは十分に可能であろう。会田誠本人も



といっているので、対話や討議の可能性は十分に開かれているという期待を胸に、締めとしたい。

 
 

*1:森美術館への抗議文http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/group-statement:title

*2:国語のテスト問題における正解とされる解釈のような

(無為の)共同体について―めも

 ブランショとナンシーを読んで

 まず留意すべきことは、彼らのテーマである共同体とは、社会学や政治学であつかわれる共同体とは少々性格が異なるということだ。ここで扱われている共同体とは、それらよりも根本的なあり方、日本語にすれば共存や共存性に近い意味のものである。
 彼らの説く共同体というのは、単一の価値規範に則るという意味における共同体を批判している。そして共同体を「共にあること」に目を向けることによって共同体とは何かを明らかにしようとしているのである。
 合理的共同体―個々の明晰な精神はその共通の言説の代表者でしかなく、各人の努力と熱情はその共同の事業のなかに吸収されて脱個人化してしまうような共同体*1を批判し、それとは別の共同体のあり方を論じている。
 そう、伝統的な自己同一的な主体のカテゴリーに基礎を求める共同体批判なのである。複数であり単数である存在において、それらを排他的な私たち≒合一なものとして語らない方法を探る。そう、共同体というよりも共存について語っているのである*2。何かを共有している、たとえば文化であったり価値規範や偉人といった何かを共有している共同体のことではなく、なにも共有していない共同体―ブランショジャン=リュック・ナンシーが語るそれは非同一性の共同体である。


 私にとって何よりも興味深かったのは、西洋近代意識の一つをなす、失われた共同体という意識、この意識は幻想にすぎないのではないかという問いかけである。そしてまた、この「喪失」という体験によって共同体を成り立たせているという問いかけである。
 J=L・ナンシーは、ルソーの語った自然状態のような「原型共同体」への希求が常にヨーロッパにおいては存在し続けていたとする。しかしそんなものは幻想であり神話であるにすぎないのではないか。そして、そんな想像上の神話を幻夢を理念とすると、現実との齟齬の間で摩擦が―暴力が発生するのはあきらかであると考える。近代ヨーロッパはルソーから始まって、失われた共同体という幻想を作り上げてきたのだ。(合一の内在性と親密の)「喪失」そのものが共同体を成り立たせているのである。
 内在や合一的な融合がもつ論理は、死に準拠した共同体の自殺の論理だ―ナチをみろ*3ヘーゲルもまた国家という他者が真実をもつとする点で危険なのである。死は止揚されはしないのである。
 失われた合一への郷愁、ヘーゲル的な欲望(承認の欲望)このような意識を私の意識としてもつことはできない。そこでは複数でありながら単数である私たちは、私という主体は融合状態の中で単一の共同存在・無名の私たちに作り変えられてしまう。
 その危険性に対して警鐘を鳴らしているといえるだろう。国家や宗教の正義、または人間は生産者として人間になるというイデオロギー、こうした理念のもとに運営される共同体・社会が過去においてどのような運命を辿ったのか言うまでもないだろう。

 では共同体とはなんであろうか

 それは上記のようなのではなく、私の意識というのはむしろ共同体において共同体をとおして―共同体のコミュニケーションとして―しかもちえないのである。自己の外の体験の空間それ自体であり、その空間化にほからないものとしての共同体なのである。それは集団的無意識に似ているかもしれない。
 つまり「共同体は個としての存在の欠落部を補填するものであるべきではない」のである。しかし個人の存在においては常に欠落・不充足がつき纏っているではないか、不安があり充足・従属を求めてしまうではないか。その不充足に(不安に)ナンシーとブランショは注目する―それを共同体の根本に据えようと試みるのである。彼らによれば不充足、それは*4原理である。そして原理であるとは、ある存在者の可能性を統制し秩序付ける者ということとされる。この不充足の体験には他者の存在が不可欠である。そして共同体とは、こうした不充足を感じさせられる常に再確認させられる場のことを指す。差異が露呈され、分割される場といえる。死に向けて秩序付けられたものが、共同体のあり方であるとされるのである。そして死は独りでは起こらない、それは共同の、他者の存在を必要とする出来事である。
 こうは考えられないだろうか、死というこの不安・不理解・非同一の体験、こうした不充足が共同体の原理であり、それゆえに過去・現在我々が見てきたように合一や共同の価値や歴史・民族を求めてしまったのである。共同体は死と深く結びついている。それは死が露呈する有限性、個の有限性である。有限性のある孤立した個は、そうした不安や有限性ゆえに共同体に帰属し統合を保証され安心を得てしまった―それで幸福に至れると考えられていた。死によって無に返ってしまう個は、共同体に属することによって意味を永遠の生を獲得できるという甘美な幻想によって、個の死は共同体の死に回収され、共同体は死を欲するのである。
 死といわれても分かり難かったら―たとえば私と昆虫の関係をみてみよう。いやそれよりも、『無為の共同体』の日本語版「私たちの共通の果無さ」で語られている、私と外国人という関係で見てたほうが分かりやすいだろう。おそらく私と彼には共通の表面がある、しかしその共通の表面には属し得ない場所がある、理解しあえない場所がある*5。この私と彼や昆虫との間にはどうしようもない溝が、割れ目が引き裂きが横たわっている。おそらくはこのような体験このような場所―そしてまた同時に、私と彼の経験がこの無為な何も生み出さない(かもしれない)割れ目を分有すること―によって私と彼は「共に在る」、今のこの時私と彼を結びつけているのは他の何ものでもない、この割れ目である。この非同一性によって共にあること、割れ目を分有することが共同体のあり方である。

 たしかに、共同体はある合一*6への、融合状態へ向かう傾向がある。融合の内に自己が滅却され、それによって(ルソーやヘーゲル的な)自由が得られるような共同体がある。しかし共同体は至高性の場ではない、バタイユはそれを嫌悪し、不充足な状態を重視した*7
 また共同体は複数で存在するという意識を分かち合い共有するだけにとどまらない。不充足は満たされることによってますます欠如が過剰を求めている*8。共同体は、共有の機能を停止してしまう誕生と死という出来事が共有されなければありえないのである。他人の死に己を晒す、他人の不在、これこそがコミュニケーションの基盤である。共同体は孤独を癒すものでも保護するものでもない、彼を孤独にさらすそのあり方である。死を共有すること、死を個人の死でしかないものとは扱わないこと、それが鍵となっている。
 
 共同体は抽象的な非物質的な何かによって共同体になるのではない。共同体は営みの領域には属さない、それは生み出されるのではなく有限性の体験として体験される。同一性に還元され得ない差異・溝・隔たり、それは死によって、それは不理解によって体験される。これが分有である、それは決して私有でも、共有でもない共に出現する共に体験される境界線、または場みたいなものといえるかもしれない。この体験される場こそが共同体なのである。それはまた、アレントのいう「間」に似ているのかも。そういう意味では共存ともいえるし、共同性的なものともいえるのだろうか。

 合一の代わりに、差異を自己解体を迫られる他者とのコミュニケーションがある。

 そして「ともにあること」とは、分割・分有であり、それがバタイユのいう死なのである。共同体の根本的なあり方は、この死―私のものには成り得ない・理解できない―という体験なのである。それは決して合一・融合という体験にあるのではない。また共同体は共同の実体でもない、それは他者とともに誰があるということ、一緒にいるということなのだ。
 
 

おそらくこんな理解で大きな誤りはないだろう、哲学から離れていたが、主体や共同体そのもののあり方に大しての問題定義、とくに喪失の共同体観に関して私自身疑問に思っていたので思わぬブレイクスルーを得た気分だ。エスポジト読んで必要性に駆られたというのもあるが、たまには哲学に立ち返るのは有益だと再確認させられる。
 

〈メモのメモ〉
 

 共産主義(communisme)と共同体(communaute)前者には近代における生産が、後者には無為・働かないが関連する。営み―作品の彼方にあり、営み―作品から身を引き生産することとも成就することとも関わりを持たない。共同体と共産主義は今日の日本だと結びつき難いかもしれないが、この時代では切り離し得ないのである。ヘーゲルヒューマニズムなどにも留意するといいだろう。生産者としての人間という共産主義のイデオロギーへの帰属、人間は生産しなければならないという思想に対する反発としての無為といえるだろう。ルソー・ヘーゲルハイデガーへのアンチテーゼといえるだろう。

恍惚はバタイユにおいては内的体験でありながらも、自己が外におかれること。供犠=交換・コミュニケーション

 「分有とは次のような事態に対応している。すなわち、共同体は私に、私の誕生と死とを呈示することによって、自我の外にある私の実存を開示するのだ。とはいえそれは、あたかも共同体が弁証法のモードや合一のモードに則って私にとって代わるような別の主体であるかのように、共同体においてあるいは共同体によって再び投じられた私の実存ではない。共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈とは別のものではないのだ。(中略)有限性こそが共同体的「であり」、それ以外の何ものも共同体的ではないからである。」(ナンシー49)

エスポジトは、主観主義的な主体観によって基礎づけられている点において共同体主義自由主義も似たようなものであると批判する。たしかに、共同体として共有している意識に基づく「正しい」に依拠して生きろという共同体主義は言わずもがな、自由主義もまた多様で自由であるべきと要請する。「多元性と寛容は結果として実現されねばならないのであって、めざしてはならない。それをめざせば、すなわちテロスとして理論内容に取り込んでしまえば、当の理論が種々雑多な声に混じって生じる微細な声のひとつであり、そのようなものとして事実的にのみ多元性を実現しているのだということが忘れられてしまうからだ。」*9とは言っても、彼が批判するような問題は確かに抱えているのかもしれない。

共同体≒コミュニケーション空間ともいえるのだろうが、それはハーバマスの語るような討議空間・理想的な発話状況のそれとは異なると考えられる。似ているのを示唆している方もいたが。

 共同体において喪失が感じられ、その充足をどうしようもなく必要としてしまうとして、現実的な共同体においてそれではどうしたらこの不充足を、同一や統合に陥らずにマネジメントできるんだろうか。

アルフォンソ・リンギス 『何も共有していない者たちの共同体』序文
http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27028pre.html
参考にした――こっちのが分かりやすいorz
http://www.saysibon.com/yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm

*1:リンギス:2006

*2:ここで否定されていう共同体とは、分かりやすく言えばサイードのオリエンタリズムのことであろう。そしてその西洋または東洋という代替不可能性のことではないか

*3:コミュニズムもナチズムやファシズム等は、いや現代の一部国民国家も、個を超える共同体の(上位の)価値を掲げて、個人の不安を利用し大衆を動員してきた

*4:共同体の?

*5:理由はなんでもいい言葉が通じないとか、過ごしてきた文化が違うとか―でもそれでも過コミュニケーションは生じているとか云々

*6:神と一体となり融け合うこと

*7:とはいっても、共同体は共同体である限りにおいて融合状態・合一へ向かうことを止められないのではないか

*8:ヘーゲルにおいて自立した自己は他者からの承認をめぐる死を賭した闘争によってえられる

*9:http://socio-logic.jp/baba/os/os00.php

けいおん! 別れを受け入れ―近代を超克するモデルとしての放課後ティータイム―

 けいおん!のアニメ一期、二期と映画を見た上で私の立場を明らかにしておきたい。けいおんというオタク向けな深夜放送アニメに成熟やら内面が描かれる必要性はないと思う。そういう作品が見たければ、そういう作品をみればいいだろう。いくらだってある。そういった批判は全くクリティカルでもないし、まったくもって不毛であるだろう。しかしまあ、不毛なことをしてみよう。
  
 けいおん!」にも内面はあるんじゃないか

 「けいおん!」とは、ちょっと変わった女の子たちが自分の居場所を求めて静かな闘争を繰り広げている物語であると私は読む。異性という居場所から閉めだされてもなお、女の子たちは居場所を求めて日々戦っている。
 「けいおん!」はどうやら日常系らしい、よく知らないのだが恐らくつまり、特に大きな事件も起きなければ特別に変わった世界でもない、どこかにありえそうな世界観とその日々を描いた作品のようなことがいいたいのだろうと思う。
 さてそれでは、私的に見た限りでは「けいおん!」は第一期と二期ではその性格がだいぶ異なる。端的には、一期は成長と漠然とした不安と居場所を見つけることが描かれており、二期は居場所で内部で楽しむことがメインとして描かれているのではないか。
 成熟というのが何を指すのかよく分かっていないのだが、二期は5人の関係性が一つの一旦は完成された共同体となった後の物語であると私には感じられる。つまり二期の彼女たちは、彼女たちが一つの共同体となり、そこから外とのコミュニケーションより内なるコミュニケーションを交わしながらの自己保存が目的となっているといえる―その目的のために自己改革が静かに少しずつ進行している様が描かれているのではないか。

 実際に作品を見てみよう

 たとえば唯に死や内面がない云々と言われているらしいが、もしかしたら作品を通して彼女があまりに自由奔放であるが故にそう映ってしまったのかもしれない、もしくは作品をちゃんとみていないだけだろう。しかし一期をみれば、彼女が高校生活に胸を膨らませ、一歩踏み出し何かを始めたいと思いながらも、自由であるがゆえに青春をどう過ごしたらいいのか分からない姿や、テンポ悪くて使えないドジっ子と評される彼女がコンプレックスを抱えながらも、以前褒められたことがあった「うんたん♪」(カスタネット)を切っ掛けとして、そして3人が奏でる「翼を下さい」を聞いたことによりキラキラとした青春の光景に心を奪われ、そのキラキラへ自分を放り込む決意する姿が丁寧に描かれている―ように私にはみえる。得意なものも特徴もない冴えない少女が何かを見つけるため、ちょっと頑張ろうとする。「けいおん!」の一話目はそんな感じで始まっている。「みんなのために」安いギターを買って早く練習できるようになることを選んだ彼女は、おバカってイメージとはかけ離れており、不安を抱えていた唯が自分の輝ける居場所を見つけ、バンドの中で自分を確立していくさまが描かれている。ただ唯は音楽に出会えた幸福と、好きな事に熱中できる才能があった。
 彼女は軽音楽部にて「私にもできることが、夢中になれる大切な場所」を見つける。自信のない女の子が自分を見つける瞬間が、心配ないよって過去の自分に語りかける姿が描かれている。これは内面じゃないんだろうか。
 
 唯は確かにゆるい、しかしそれは内部の人間に見せるものであることに、没入してしまったファンは忘れてしまうのだろうか。もしかしたらそれこそが、ファンの望みからであるかもしれない。ただ彼女もコンプレックスや不安を抱えるどこにでもいる少女であることは作品をみれば明らかだ。
 一方で唯は中学の関係から卒業し高校で新たな関係を築き、バイトなどもして少しずつではあるが自立し、そしてギターが弾けるようになるまで成長している。友達・部活・勉強そして遊びと文化祭!高校生活の全てを謳歌する、まるで少年漫画や美少女ゲームと同じように―目標は武道館!とかいっちゃったりして。
おそらく一番に自由で軽いように表現されている唯が放課後ティータイムという場所を必要としているかもしれない。もちろん断言はできないが、少人数で内輪でゆる~く練習できる場所であったことは、彼女にとって大きかったかもしれない。唯は歩みはカメのようにノロイが、軽音部で成長した大きくなった、ましになった。将来に悩む、やりたいことがない彼女は、小さいながらも目標と場所を見つけ実現させている。
 もう一方の主人公あずにゃんはどうだろう、私は彼女こそが放課後ティータイムで一番重要な存在であり、それは5人の関係を不安定にさせる重要な装置であるからだ―それは新学年が来るたびに「けいおん!」の関係を揺るがすからである。中野梓が4人の中に入ることによって、彼女たちの関係性は一度かるく壊され新しく生まれ変わり放課後ティータイムとなった。この模様は、一期の前後を見返せば分かってもらえると思う。同じ様なことを繰り返しているように見えて、あずにゃんが加入したことによって変わっていった彼女たちが、放課後ティータイムを結成しその中で戯れているのだ。 

 けいおん!における別れ

彼女たちは終わりがあることを見えていないのだろうか、この作品はそれを隠しているだろうか。いや、そんなことはない。二期の一話目で来年は卒業しあずにゃんが一人残されることを憂いているメンバーの姿が描かれているではないか。また、あずにゃんはあずにゃんで来年には終わったしまうことを受け入れつつも、今はこの5人でいることを肯定する。この時点では、彼女たちは終りが来ることを隠しているのではなく、終りが来ることを了解しながらも今を肯定している姿が輝かしく描かれているのではないだろうか。二期は、主に内部に焦点が当てられている。あまり関わりあいの描かれなかった、紬とメンバーとの絡みも増えていた。
 一期の8話では2年生のクラス替えで澪だけが一人になってしまう姿もみられるし、第二期でも別れは事ある毎に描かれている。そして後輩が誕生したことにより不安定感がましたり、喧嘩があったり、ずっと一緒じゃない未来もまた描かれている。。
 演出上、エモい感じを出すためかもしれないが卒業や別れ過去(思い出も)、終わってしまうこと、そして自分たちに似ている人の未来の姿―さわちゃんと高校の頃バンドメンバーとの関係―が二期には散りばめられている。例えば10話では、サワちゃんのバンドが生きていることが示されている。
 また彼女たちが別れず、同じ大学に進学したのは12話で語られている―これからもずっとみんなでバンドできたらいいね、という夢を叶えていくためと捉えられるのではないか。彼女たちは死≒別れを直視し、その上で夢と現実を見据えたのではないか。彼女たちが進学しても別れないのは、モラトリアムを延長するヌルさ故ではない、より成長へと向かう夢を実現させるためのポジティブなものではないかと私にはみえる。そして彼女たちは現実に、目の前の目標を実現させている。

 またもう一人の主人公である、あずにゃんが別れが来ることを意識しているのは明らかだ、そしてその上で同級生の2人より先に行ってしまう先輩たちを選んでいる。二期の13話における比較はかなり露骨だ。そして花火を背景とした4人の姿を見て彼女は「また私夢見ているのかな」と追いかけ、そのあと4人とあずにゃんがはぐれてしまい同級生の二人と合流する描写は、先輩との日々の終わりを・残されてしまうことを示唆しているのだろう。しかしはぐれてしまっても彼女は「大丈夫だよ、きっと」と答える。一人になってしまう不安を漠然と抱えながら…この話では先に行ってしまう4人と残される1人の対比が描かれているではないだろうか。5人の関係性に今までと違った距離感が生じているのが描かれているではないか。
 Y & Iには、いなくなって初めて大切なものの有難さが分かる旨が綴られている。3回目の文化祭ライブが終わると、次はないこと、軽音楽部の生活が失われてしまうことに、みな涙している。そして、その別れを乗り越えるために一緒の大学に行くという決意が21話ではなされた―推薦をやめて―別れが4人の方向性を結束させた、同時にバンドから外に出ても一緒という意識が強くなる。

 死≒別れ、という具合に解してもよいのならば、けいおん!には至る所に死が描かれている。それが視聴者を感動させるため機能しているではないか。2期の最終回付近や映画のラストには別れと始まりが、飛び立つ者と残される者の明確な線引きがなされている。 
 

 共同体としての放課後ティータイムと「けいおん!

 ここからは独自の視点と現代思想を絡めてなんかちょっと小難しく権威付けて当てつけっぽく、けいおん!を読み取ってみよう。アニメ版けいおん!は5人が共同体(コムニタス)として近代のアポリアを超克していくストーリなのではないか。細かいことは抜きにしても、第一期の前半は―後半も通して―軽音楽部が放課後ティータイムというバンドとしての姿を形成していく、ふわふわポジティブなストーリーである。あずにゃんが加入することになってから放課後ティータイムとなる流れは5人で一つのバンドであることを示唆しているだろう、それは作品内でも名言されている。このバンドは、あずにゃんが一年かけて去年4人が経験したことを一緒に追体験することによって確固とした共同体となる。そして第二期は、ある程度の同一性を獲得した5人による透明なコミュニケーションが延々と流される―というような解釈をよく見るが、実はそうではないと私は批判する。
 放課後ティータイムは、そのメンバーである中野梓、あずにゃんという存在を鍵とする。彼女は放課後ティータイムという共同体における同質なアイデンティティを共有する構成員でありながらも、同時に敵であり客であり他者に変身できる。それは下級生という立場によって否応無しに変身させられる・意識させられるのだが、彼女を取り組んだことにより、放課後ティータイムは伝統的な共同体観を飛び越え、現代に要請されるような共同体へと成っていく。エスポジトによれば伝統的に共同体とは自己同一性に―同じであることに―基礎を求める。こうした共同体は自由主義であっても共同体主義であっても、どちらも自己の所有権に閉ざされた個を志向しまうことになると言う。こうした共同体観はグローバル化し移民と他者との距離が近くなった今日多くの問題を孕んでしまう。
 共同体は類似性・同一性といった観点から捉えられるのが伝統的である。しかし「けいおん!」で描かれている共同体のあり方は、その伝統的な共同体を超克する可能性を秘めた可能態とみなせるかもしれない。
 話を戻そう、一見すると「けいおん!」は集団のカラの中に閉じこもった物語とみなされるかもしれない。たしかにそういった性格が―均質なアイデンティティが―あるのは間違いないし、作中でも5人の結びつきが強く外から入りにくいことは言及されている、しかしそれだけにとどまらない。あずにゃんが加入したことにより、バンドは同一性のみならず免疫機能を発動することになる。あずにゃんは外からやってきた、そして部活のあり方に疑問を投げかけ部のアイデンティティを揺さぶり、卒業を機に別れる高い可能性を有する存在である。あずにゃんは、放課後ティータイムの自己でありながら、その外部に飛び出せる存在であり、彼女がいることによって否応なしに放課後ティータイムは(別れという)外部との接触や伝染に晒される。彼女を取り込んだことによって放課後ティータイムは共同体として確固とした存在になったのではないだろうか。そして彼女を受け入れたことによって放課後ティータイムは過度な自己免疫化を逃れ、内向的で攻撃的でないふわふわだけどしっかりと結びついた最高のバンドになっていったのではないだろうか。
 この共同体のあり方は今日大変興味深いものである。内部において多様でありながらもある程度均質なアイデンティティを共有し、集団の救いを他者の破壊へと向ける必要のないことは、他者の死を必要とせず生を追い求め続けることができる、*1つまり近代を超克しているのである――という以上のことは当てつけである。
 ビオス(集団に固有の生の形式)はあずにゃんを抜いた4人のなかで既にだいぶ確立されていた。しかし、あずにゃんを孕むことによって、対立する免疫システムの緊張関係を維持しつつも、それが新たな生の出生となっている。あずにゃんが放課後ティータイムを完成させ、同時にあずにゃんが放課後ティータイムを開放し危険にさらす。そうした不安定さが許容されることによって、放課後ティータイムはより確かなものへと安定していく。
 危機や他者は、死と隣り合わせの死へと向かう戦いではなく、生へと向かう戦いを志向する。つまり異分子と接触することによって、胎内に取り込むことによって開かれた共同体のモデルとして放課後ティータイムをみなせるのではないか。彼女たちのゆるさ、確固とした自己がない曖昧な感じ、しかしそれゆえにアイデンティティを共有しながらも、確固とした均質なアイデンティティに固執することもないのである。
 私は放課後ティータイムとあずにゃんは「互いに、相手なくしては存在し得ない内在的な対立物」なのではないかと読む。始まりとは自らの内に反対物(≒死)を孕むことである。つまり機能的に特異なあずにゃんを迎え入れることによって、放課後ティータイムは始まったといえるだろう。
 一時の別れ、それは確かに低い跳び箱かもしれないが、彼女たちはそれを飛び越えていく―世界を変えてしまうような大きな問題に出会わず、無理に高い壁を設定せず。彼女たちの足取りは危なげないが、でもしっかりと飛び立つ。あずにゃんがくれた翼を広げて。そして、あずにゃんに翼を授けて。



 ただ、このような共同体は架空の世界でしか描けないのではないかという不安もよぎる。けいおん!の世界には親が登場しない、男も大人もほとんど登場しない。それは役割としての親や大人を必要とするほどの問題が生じないからではないか。あの共同体は所詮架空の世界でしか…とネガティブに捉えられることもできるだろう。しかし、可能態はそれでいいのであると私は思う。あの共同体を実現するのは大変に困難で不可能に近いかもしれない、しかし、ああいった共同体が描かれることによって、我々はその現実態を想像することができるかもしれない。
 また同時に卒業という別れの強制的装置によって適切なモラトリアムを経験するよう助けられていると解することも可能だろう。内部で固まりすぎず淀んで腐ってしまわないようにする機能を卒業は有しており、放課後ティータイムに固執するあずにゃんに別れを受け入れさせ、彼女とバンドの成長を促しているようにも、学校という制度を肯定しているようにも思える。

 また、たとえ大きな問題のない会話だけのアニメであったとしても、それにもかかわらず我々をあれほど魅了した「けいおん!」はふわふわにすてきな作品であることに間違いはないだろう。





よだん!

 余談だが、この共同体は環境の変化に対して内部の配置を変化させることによって対応するシステムのようには見えない。どちらかといえば、この共同体はどこにいっても、いつもの自分たちを貫ける強さがある。しかし同時に確固たるアイデンティティは、ふわふわなところにあるので敵対的ではない。放課後ティータイムは均質なアイデンティティを共有しつつも他者と別れを内部に取り組むことによって、共同体として成熟し確かな外殻を手に入れた。つまり自己免疫機能が常に少量の危機に晒されることによって、自壊してしまう危険性を調整しているのである。その少量の危機を常に提供してくれるのが、内部のあずにゃんなのである。あずにゃんという後輩を排除しなかったことによって、放課後ティータイムはバラバラになることなく、環境変化にも強い共同体なり得たのではないだろうか。
 ただ同時に彼女たちの自己愛も強い。あずにゃんへの歌を、喜んでもらえるかをとても気にかけている―ロンドンで大して緊張せず演奏してしまうメンバーがである。彼女たちにとって一番大切なのは内部であることの表れであろう。それ故に、この共同体の中に入れば、澪がメンヘラになることは無いと思える。

 また余談だが、やはり作品はしっかり見るべきだろうなと思った。今回の批評では後半よりも前半のほうが書くのが大変だった、全話をいちいちチャックしながら何度か見返すのは骨が折れる。逆に後半は、それっぽい現代思想を作品の何かにむりやりねじ込んでしまえば骨格は出来上がってしまった。楽ちんだ―ぶっちゃけ当てつけ以外の何物でもない。放課後ティータイムが近代を超克できるモデルだなんて語ることは入門書を片手にできる。
 批評というものが何であるのか私はあまり興味が無い。しかしやはり作品に誠実であるべきじゃないかと思う。ある政治的・学術的な考えを、予めある考えを主張するために、作品を歪めてみるのはどうなのだろうか。キャッチーな作品であれば読まれやすいのは理解を示せる。しかし社会的なことをいいたいのなら社会批評をすればいいのだし、構造などを明らかとしたいなら、巷に溢れる煩雑な作品や面白くもない沢山の作品と格闘する必要こそあるのではないだろうか。
 もちろんたしかにオリジナルなきシミュラークルといった円環・螺旋のなかからコピーコピーコピーを繰り返し、そのなかから要素を取り出しなにか新しいものを紡ぎ出すという作業は創造的であると思うが。


追記

「アニオタ保守本流けいおん!全員女子大進学問題をdisってみた」http://togetter.com/li/51774
けいおん!という病。”全員女子大進学問題”を考える。」http://d.hatena.ne.jp/aniotahosyu/20100921
こういう態度の人たちを私は批判したかったんですかね。ちょっと違う気もするけどメモとして

*1:ただ自己愛は激しい感じもする

NGOとテロリスト―国家を超えて戦う者たち(メモ)

NGOとテロリストやテロリズムは似ているかもしれない。
 それは彼らが国家を超えて戦う者たちである、という点においてもそうなのだが、シュミットが提唱した「現実的な敵」と「絶対的な敵」という区別においてより明確になる。
 NGOもテロリストも冷戦が崩壊しグローバル化が進行する今日の社会でその存在感がより一層増している―もちろん彼らはそれ以前から活躍し成果を挙げているが。彼らはグローバルに既存の国家や社会の境界線を超えて、彼らが「絶対的な敵」とみなす者たちと闘争を繰り広げる。そのあり方は、既存の資源や領土を巡って争う戦争とは明らかに異なる形態をとり、既存の概念や制度を機能不全にまで陥らせるだけの力がある。
 もちろん両者は必ずしも反体制というわけではない、体制を崩壊させることを目的としているとは限らない。また社会主義革命を志向しているわけでもない。しかし彼らは共に、彼らの信じる正義を実現するため悪の打倒を志す―その敵は国内にもいれば国外にもおり、固定した民族や宗教や国家を敵とするわけではない。
 このあり方はジョン・アーリの「社会を超える社会」やネグリが示した「マルチチュード」に似ている。それらは地域規模で闘いながらも「地球規模」の攻撃性をもつ。しかしまた一方で、このあり方は企業や政府を相手に戦った市民運動とも酷似しており潜勢力の一般的な形態にすぎないともいえるだろう。
 
 つまり両者の違いといえば、NGOが専ら物理的非暴力を掲げ民主的方法を採用するのに対して、テロリストが物理的暴力をその方法として採用している点にあるにすぎないのではないか。
 ともに「絶対的な敵」を見つけ、ネットワークを形成し、内なる敵にその暴力性がむけられたり、境界を超える文化的な対立も辞さない態度、こういった特徴は両者にとって不可欠なものであり、それ故に私はNGOとテロリストは類似すると思いついたのである。

ん~~~あてつけっぽい!むりがあるorz
ここからどう発展するかも見えてこないorz

追記
 ただ、一方が信じる絶対的な敵は西洋・先進国において受け入れられる可能性が高く、もう一方はイスラムによって受け入れられる可能性が高いという緊張関係にある。NGO VS テロリズム という文化対文化の対立は既に登場しているし、この問題はある地域における司法によって安定した処理を下すこともできるが、汝の正義とは何かという大きな判断を迫られる問題と今後益々なっていくだろう

異質と同質2――都市と社会解体への疑問

 社会学には近代化または都市化によって個人の阻害・孤独化や社会の解体が生じるという一説が未だに強い影響力をもっている。有名なアーバニズム論などがそれであり、近代はこのアーバニズムが都市に限らず地方にまで行き渡っているとワースは論じる。

 都市社会学やワースに限らず、近代化によって親族や地縁・血縁といった一次的関係が薄れ、無関心・孤独といった二次的関係が増すことによって社会のアノミーが増大するといった説は当然のこととして受け入れられ、もはや問うまでもない前提として扱われていたりする。

 今回はこのことを問題として扱ってみたい。つまり近代化や都市化によってアノミーまたは社会不安などは増大したことによって個人は阻害され孤独になっていったのだろうかと問題提起し、近代化・都市化はアノミーを増大させ、そして社会解体が生じるという前提は妥当かどうか問うてみたい。もしくは、流れによっては近代化・都市化しても人々のコミュニティは十分に機能していることを明らかとして対抗としたい。

「典型的なワースによる都市とアノミー論」

 都市化によって人間の結合様式はどう変化したのだろうか。アーバニズムとは都市に特有な生活形態・様式である*1。ワースは人口密度や異質性が高く、コミュニティの規模が大きくあればそれだけアーバニズムの特徴が見いだせるとする。

 この異質性は近代と近代以前を分ける重要な特徴である。往々にして社会学においては、近代以前は同質性が高く近代は異質性が高いことが特徴とされている。

 このように人口が多く異質性が高い都市においては、「親族、隣人の結合、そして共通の民俗的伝統のもとで何世代も一緒に暮らすことから生じる感情は、欠如するか、せいぜい相対的に弱くなる。そして競争と公式的統制のメカニズムが、民俗社会をまとめるのに頼りにされていた連帯性の結合に取って代わる。」(ワース)*2とみなされる。人が増えると、それだけ深く知り合いになるのが難しくなり、多数の組織やコミュニティに同時に属することになり人間関係の高度な分節化が生じる。

ワースのアーバニズム論を要約すると以下のようになる。

 都市での人間同士の接触は、非個人的であり、表面的で、一時的で、分節的である。また、都会人が自分たちの関係のなかで表明する控えめな態度、無関心、そして歓楽に飽きた態度は、他者による個人的要求と期待に対する免疫装置であるとみなすことができるかもしれない。

 都市的社会関係の表面性、匿名性、一時性は、また、概して世間ずれと合理性が都会人の特質とされることを分かりやすいものにする。われわれの知人は、われわれにとって功利的な関係となりがちである。それは、われわれの生活のなかで各自が果たす役割が、圧倒的にわれわれ自身の目的達成のための手段とみなされるという意味である。

 一方において個人は、親密な集団の個人的・情緒的統制からある程度解放され自由を獲得するが、他方において、自発的な自己表現、モラール、統合された社会に生活することにともなう参加の感覚を失う。このことは、本質的に、デュルケムが技術的社会における社会解体の多様な形態を説明しようとして指摘したアノミー状態すなわち社会的真空状態を構成する。

 (中略)感情的・情緒的紐帯をもたない諸個人が近接して生活し、ともに働くことは、競争、出世、相互搾取の精神を呼び起こす。無責任と潜在的な無秩序に対抗するために、公的な統制が制定される。

 都市的生活様式の顕著な特徴は、社会学的には、第二次的接触が第一次的接触に取って代わり、親族結合が弱体化し、家族は、その最も特徴的な歴史的機能のいくつかを剥奪され家族の社会的意義が減少し、近隣社会が消滅して、社会的連帯の伝統的基礎が掘り崩されることである。

 大雑把にまとめれば、都市化によって個人は感情的・情緒的紐帯をもたなくなり、人間関係は功利主義的な目的を満たす手段が主となる。個人の自由度は増大するのだが地域社会との結びつきは弱くなり、また家族の絆・機能は弱体化して社会的連帯は基盤を失う、これらのことによって無秩序は増し公的統制の必要性が都市や近代には増大するのである。これはデュルケムの語ったアノミー状態のことであり、「こうした環境のもとでは、個人的解体、精神異常、自殺、非行、犯罪、汚職、無秩序は、村落コミュニティよりも都市コミュニティで広くいきわたっていると予想される」(ワース)と考えられるのでる。

 以上が伝統的で代表的な都市論・近代化論といえる。それでは、果たして今日このような都市論は現代社会・都市に妥当するのであろうか。前回の記事の主題であった差異と同質性がここでも重要な鍵となる。今問題としている都市論においても差異性・異質性の増大によって自然的な社会秩序は不安定となり、公的な統制が必要という展開になっていたのは明らかである*3

「フィッシャーなどによるワースの批判」

 

 このワースのアーバニズム論*4に対して一方、ワース以後の都市社会学者であるフィッシャーは、都市生活に浸透している「非通念性」」(逸脱や発明など)をいかに説明できるかに着目し、ワースとは異なるアプローチをする。フィッシャーによれば、ワースのアーバニズム論の主要な帰結は、社会解体と個人の疎外である。フィッシャーの狙いはこの様なことが生じる根拠としてのアーバニズムの社会的効果は如何ほどのものかを明らかにするところにある。

 私が提出しようとする理論は、簡潔に言うなら、都市の規模と密度には独立した社会的効果があり、そのなかにはワースが逸脱と解体として記述した効果も含まれるというものである。しかしながら、こうした社会的効果をみちびく諸過程は、ワースが仮説として呈示した過程とはまったく異なっている。都市において「逸脱と解体」の発生率が高いことは、疎外、匿名性、非人格性のような要因によって説明されるのではなく、活気ある非通念的な下位文化を維持するのに十分な大量の人びとの集まり、すなわち「臨界量」によって説明される。「逸脱」と呼ばれるようになるものは、こうした下位文化が行動に表れたものである。

ワースがいうように都市には逸脱*5が見受けられる。しかしその発生はネガティブな意味の疎外、匿名性、非人格性といった要因によってではなく、下位文化が豊かになるために生じるとフィッシャーは考えるのである。

都市化によって「個人の疎外、社会のアノミー、そして「解体し」「非伝統的」な「逸脱」行動の蔓延」といった仮説はワース以後の様々な研究者によって疑問を投げかけられた。端的に言えば、都市においても第一次的な関係は存在し、豊かな紐帯やネットワークが機能しているという反論である*6

 さらに加えるならば、現時点では「都市が疎外やアノミーを生みだすという仮説を確証する証拠はほとんどない」(Gulick 1973;Fischer 1972, 1973; Wellman et al. 1973)。

しかし確かに、都市において村落居住者よりも、一般社会のもつ中心的および/あるいは伝統的な規範に違背するような行動をとることが多い。これらに共通するのは、社会において優勢な規範に違背しているということである。フィッシャーは、こうした行動や信念を示すのに「非通念性」(≒非伝統的)という言葉を用いる。

 つまりフィッシャーは都市においてワースが言うように、個人の疎外・社会のアノミーの増大などによる社会の解体の末に、逸脱が発生するのではない。都市において下位文化が豊かになるが故に逸脱は生じるとするのである。

 

 都市においては都市度が高いほど下位文化は強化される。これは自集団の規準をより強く意識するようになり、他の下位文化つまり文化が異なるものとの対立が生じ、そのことによってまた自己の文化の価値を強く抱くようになる。「都市移住者にとって、独特の異国風の行動との出会いは、自分たちの固有の文化をますます自己意識的に堅持させるようになる」(フィッシャー)*7

フィッシャーは

 社会解体は都市において常に生じる。しかしその要因としてワースがあげるようなアーバニズム―疎外、孤立、非人格性、皮相性、ストレス、緊張、不安、人間性の剥奪―は必要としない。

 大都市は市民が共通の「社会的世界」をもつことによって統合されているわけでもなければ、アノミー的な「大衆社会」のフォーマルな手段によって統合されているわけでもないということである。それなら、都市はどのように統合されているのであろうか。ある程度までは、都市は統合されていない。つまり、大きなコミュニティでは、小さなコミュニティよりも、価値の合意は存在しにくい。満場一致というよりは、「百家争鳴」の状況にある。しかしながら、だからといって疎外され無秩序になることを意味するものではない。

むしろ、かれらは、村落の人びとと同様に、持続的で、精神的にサポーティブで抑制的な下位文化のなかで生活している。都市においては、こうした下位文化が、しばしば〔村落よりも〕ずっと非通念的である。

 

と結論づける。

 つまり都市は非近代的な(都合の良い)イメージとしての村落のようには統合していないのは確かである。しかし、それはワースの都市論のように、人間が疎外されたり情緒的な相互扶助が欠如しているからではない。都市化とアノミーの関連性を裏付ける証拠もない。都市において解体・逸脱が見られるのは、下位文化が豊かになるからである。そして下位文化はお互い対立したり影響し合いながら持続的なコミュニケーションを交わしており、下位文化の中では―時に下位文化同士も―助けあって生きているのである。ただ都市は、中心的な伝統的な価値が相対的に弱く、それ以外の様々な価値が存在する故に一見無秩序に見られてしまうだけなのである。

まとめよう。近代化や都市化によって同質性は失われたという前提に立脚し、その事態をもってして社会が解体されたとするのは誤りである。また確かに、都市社会には逸脱が多く見られる。それは伝統的な共通の価値が欠如するからであるとワースによって主張された。それは正しいといえる。都市においては伝統的または共通の価値合意の達成が困難となっている。しかしだからといって、ワースが仮定したような人々の連帯性の欠如などによって無秩序化するわけではないのである。

 都市においても連帯性や家族や友人の絆は存在しており相互扶助によって支えあって生きているのが既に確認されている。ただ、都市においては下位文化が豊かになる故に、伝統的・中心的な価値からの逸脱が多くみられるのである。そしてこの共通が少ない、価値合意の困難な統合もしていない都市の人々はそれでも秩序だって支えあって―イメージ上の村落の人々と同様に―生活しているのである。都市は多様性を増大させるが、しかし同質性がそれ程なくとも現に秩序は維持され扶助しあって生活を送っているのである。都市において異質性が高いことが連帯性が損なわれ社会解体と個人の疎外が生じる理由にはならないのである。

追記
 とても素朴な考えだが、隣人の顔を知らないことはそれ程問題なのだろうか。3.11の日、私の近所では普段交流のない人たちが少ないながらも情報を共有したり助けあったりしていた。顔の知らないネット上の人々が励まし合っていた。もちろん地縁や地域コミュニティは大切なものであることに違いはない、しかし近代化・個人化・都市化した今日では、以前のような価値合意に達することはほとんどないだろう。つまり地縁の復活を謳ってもあまり効果的ではないのではないか。それよりも、地縁や地域の以前のような紐帯が衰退しても、問題のないコミュニティやネットワークのあり方を模索し支援していくほうが効果的であり重要なのではないかと私は考える。

*1:都市の中心的な問題は「大量の異質的な諸個人からなる、相対的に永続的で密度の高い居住地に典型的に見られる社会的行為と社会的組織諸形態を発見することである」

*2:都市化は公的統制すなわち行政国家化を必要とするともいえるだろう。

*3:社会を安定にするには共通の何かアイデンティティなどが必要とは、ここではワースは論じていない

*4:例えばワース以前の社会学者であるジンメルは、近代化によって個人はなくてはならない存在になったと考えている。小さな社会では、個性がいやでも分かってしまい、必然的にもっと暖かい基調の行動、たんなる奉仕とお返しの差引勘定を超えた行動を生み出しす。一方大都市では匿名性が高いために双方の関心は無慈悲な即物的な資本主義的なものに支配される。大都市は、生活をとりまく対立した流れ(束縛による無意味化からの開放つまり自由と、その自由故に普遍的人間存在という価値を捨て去り、個の独自性や代替不可能性を求める態度との対立)が、たがいに同等の権利で結びつくだけでなく、それぞれ花開くような偉大な歴史的構成体として己の姿を現すのです。つまりジンメルは都市は伝統社会を破壊し自由を拡大させたが、その帰結を否定的には見ていないことが分かる。社会的解離 (Dissoziierung)に見える大都市の生活様式は じつは 社会形成の基本形式 (elementaren Sozialisierungsformen)のひとつにすぎないとジンメルはみなしていた。

*5:社会や集団の規範に反する現象、社会システムのもつ規範的な規則、理解あるいは期待を侵犯する行動である」(Cohen 1968, p.148

*6:これらの批判はワースの生態学的な要因によって逸脱が生じるのではなく、階級やエスニシティにあるのではないか、といったものである

*7:「アーバニズムが――移民、経済変化、そして代替的下位文化のような都市化のあらゆる解体的な側面にもかかわらず――エスニック下位文化の凝集性とアイデンティティを増大(あるいは少なくとも維持)させる」

異質と同質

 なんか格好いいタイトルになってしまったアワワ ヽ(´Д`;≡;´Д`)丿 アワワ

 社会秩序を形成するためには同質性が必要である。または一つの何かへの帰属意識やアイデンティティが欠かすことができない。このような思想を前提とした方々はかなり多い。
 社会学において、近代社会の解明という点において、近代と前近代(伝統)を分けるものとして異質性と同質性がよくあげられる。
 伝統社会においては人々は同質的であり親族や地縁・血縁といった第一次的関係にあり、近代において(または都市において)人々は異質的であり、親族や地縁からはなれた一時的な関係である第二次的関係が増大するといわれている。この二次的関係が増大すると人々はアノミー状態、つまり規範が緩まり不安と孤独な状態に陥るとされる*1
 このような近代社会論は現代ではあまり妥当性を持たないと考えられるが、しかしこのような意識は移動が増大したことによる多文化多様性に溢れるグローバル社会にも蔓延っている。つまり多様性の増大は、すなわり異質性の増大であり、この異質性が増大することによって社会は不安定なものとなる。であるからして、この異質性をなんとかしなければならないという問題意識が数十年前から大きくなっている。
 近代化・都市化・グローバル化、この3つを混同して考えることは難しいが、私的にこれらには一貫して異質性と同質性という要素が重大な観点となっている。そしてこの観点は今日の政治学においてもホットである―いや、政治学においても伝統社会と近代を分別する点として議員の同質性と異質性は重要な要素であったが。
 
 グローバル化が進行した自由民主主義社会において、自国内に増大する多民族・多文化・多様性をどのように扱うかは重大な問題である。この問題に対する解決策はいくつかあるが、ここで異質性をどのように包摂するか、または排除するかが重要となってくる。
 この包摂と排除の段階になって重要な働きをするのがアイデンティティである。今日注目を集めるシティズンシップ概念においても、このシティズンシップをどこに置くか、つまり普遍的な善や地球におくのか、国民国家に置くのか等といった点において論争が展開されている。
 シティズンシップ論において重要なのが包摂である。つまりシティズンシップ―市民権は誰にどの領域にまで適用されるのかといった問題であり、国家と国民の関係に類似する。戦後、連合王国においてシティズンシップの付与によって労働者階級である異質なものを市民として包摂することが重要であるというT.H.マーシャルの論が支持され全ての市民≒国民を包摂する福祉国家が誕生することになった。
 さて、今日もんだいとなっているのが先にも述べたように多文化・多様性が増大する社会において誰から誰までを市民としみなし、市民権を付与して包摂するかが重大な問題となっている。日本的に言えば「われわれ/外人」という線引きをどこに引くかということである。また包摂するにしても、どの程度の権利を付与するのかも問題となっている。

 …論に一貫性がなくなってしまったorz

 つまり今日は、「われわれ/他者」という峻別をいかにするか。社会における異質性をどのようにコーディネートするかが重要な問題となっているのである。
 そしてこの以上のような問題に対して同質性重視か異質性重視かで分かれている。また、どこにアイデンティティを置くのかで対立が激化しているのである。これについてはまた後日









 

*1:社会学者の多くが近代化・都市化を悪とみなしているわけではないが、近代化・都市化による規範の喪失や不安の増大を問題視している論者は少なくない

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引用元 http://unkar.org/r/sake/1268708108