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映画「かぐや姫の物語」感想

面白くなかった!!!でも本当にいい作品だった!
というよりアニメじゃなかった!
少なくともアニオタ向けの作品じゃない。
タイトルに偽りなく、かぐや姫の物語であった。

この作品は、ヒロインのかぐや姫をどこにでもいるひとりの女の子として描いた作品であった。

ネタバレ盛り沢山です

アニメじゃない、これは竹取物語なんだよ!って
日本のいわゆるアニメになれた私たちをバッサリと袈裟斬りしてくれる作品であった
私たちは例えばアニメ、とくに古典の原作だと「これだけ有名で皆に知られた作品をどう調理してくれるんだろう」
という勝手な妄想がある、かぐや姫にだけではなくヒロインという存在と役割に過度な勝手な期待をかけることがある。
しかしこの作品はそんな我々の勝手な期待、物語やヒロイン像の投影を「そんなんしらねーよ、まどマギとか深夜アニメみてクソしてねろ!」とぶった切ってくれる作品であった。
その点では観てよかったと思わせる作品だし、面白いと思う
日本のアニメは主人公やヒロインに過度な期待や役割を追わせ過ぎているとは常々思っていた私にとって、かぐや姫というヒロインは良くも悪くも等身大であった。そこが昨今のアニメに慣れてしまった私たちには所謂つまらなく映ったかもしれない。


作品としての出来はすごくいいし声優陣も本当にうまかった。音楽があってないなーとは思ったけど、不快はまあ妥協できるくらいだ。
しかし、しかしだ。捨丸兄ちゃんの出し方は面白くなかったと言わざるをえない!覇王翔吼拳を使わざるを得ないくらいイラっときた。
かぐや姫の大筋としては、身近な初恋にも似た思い出とともにある捨丸兄ちゃんを忘れられない都会に登ったお姫様が田舎とお兄ちゃんを忘れられなくて苦しむというシンプルなストーリ―だ。本当にかぐや姫は幼い少女として、誰とも結婚したくなく田舎に帰りたい女の子として描かれているし、物語中ではイケメン石作皇子の青臭い殺し文句にころりとヤラれてしまった落ちる寸前であった。都が嫌で自分をわかってくれる人がいない中で、男どもが愛想を尽かしてはやく田舎に帰れるよう無理難題をふりかけ虚勢を張る女の子であった。
私はかぐや姫ではなく竹の子に戻りたかったという彼女の思いは一貫している。彼女はそれ以上の何か特別な存在ではなく、月から来た不思議な絶世の美少女であるにも関わらず、本当にあどけない普通の少女として描かれていた。そう描ける、まっすぐ描けるのは流石としかいいようがないだろう。
 ただただ良くも悪くも、素朴な女の子の悩みを描いた作品だったなあ

悟りは幸せなんじゃない、土虫獣に人と交わる、この煩悩とよばれる執着や愛こそが美しいんだ!!ブッダのクソ野郎ファック!と最後にキメてみせたかぐや姫カッコ良かったです。
あとまあ色々仏教とか生命賛歌とかを交えていろいろこじつけて語ることもできるだろうけど私の素朴な感想としては以上ですね。
あっ、女性受けはいいと思います

追記
そうか!
かぐや姫の物語のかぐや姫は
宮崎アニメに出てくるヒロイン像の否定だったんだよ!!!!
少女に色々なものを仮託する宮﨑駿への返答なんだよ!!!
(; ・`д・´) ナ、ナンダッテ━━━━━━!! (`・д´・ (`・д´・ ;)

まどか☆マギカ映画の感想

周りで評判でみんな感想とか書いているので私も久しぶりに書いてみることにした
ネタバレとかいろいろ気にせず書いてるので注意です

結論から言うと真っ直ぐなハッピーエンドだった

ネット界隈ではなんかすごくショックというか悲劇というか鬱展開とかそういう雰囲気だったので、まあそんな感じなんだろうなーっと斜に構えて見に行ったのだけど

ハッピーエンドじゃないか!!

って驚いた。
なぜ私がハッピーエンドって思うのか。

それは女神と悪魔の2つの愛の上に成り立っているが故に、女神と悪魔が共存できて、忘却と幸せという儚いバランスの上に、予定調和的に終わりと繰り返しが定期的に現れてはまた回り出すであろう世界ってのは結構理想的な世界じゃね。って思ったからなんだ。

ほむらが愛故に悪魔になることは、そんなに悪いことじゃないと思うのよ
悪魔=悪ってのはナンセンスというか短絡的だし
女神=善ってのもまた必ずしも成り立たないと思う。

実際今回の映画ではまどかはとてもカワイイけど同時に不気味さがなかったか。
私は結構彼女の笑顔とかが不気味だった怖かったよ。

まどか☆マギカ自体演出が凝っている割には、わかりやすいストーリの作品だけど
今回の映画はすごく真っ直ぐなストーリーだったし、良くも悪くも捻りのない分かりやすいお話だったって感想だ。
最初の頃は「あぁーなるほどビューティフル・ドリーマーね」って思っていたのだけど
そこは違って、夢や希望の話ではなく愛の話になっていた。

互いに一方通行な愛が衝突しないですれ違ってしまったが故の不幸な愛の悲劇とも、もちろん捉えられるんだけどね。
だけど、辛くても悲しくても叶わない愛は叶わないのだし―まどかに愛を受け入れて貰えそうにないのはかわいそうだけどさ
でも、一方でほむらは自分の愛を成就させるために一人で勝手に戦ってそれなりに願いと愛を成就させているし、これからも愛を貫くために戦うんだろうってのは普通のことなので、彼女は悲劇のヒロインじゃないよって思うのよ。
たとえいつか崩れて、受け入れられなくても我が愛を貫くってのは、つまり戦い続けるってわけで、戦い続けられる状況までもっていけた暁美ほむらはハッピーエンドを取り敢えずは迎えられたんだな―っと、やるなーって


最後のあたりでリボンをまどかに返してしまう彼女はいじらしいよね


あと私は、TVのまどかという一人の少女の犠牲の上に世界は少し救われたって終わりは最低だなって思ってたのだけど
その声を暁美ほむらが代弁してくれた気がしてスッキリした。
まどかーーテメーの犠牲の上に成り立つ幸せなんて間違っているんだよーってまどか神に一撃ぶちかました彼女の愛を私は尊いと思うよ。

女子高生の可愛さはどこにあるのだろうか

女子高生の可愛さとはどこにあるのだろうか。
電車の中や帰宅途中に女子高生や女子中学生をみかけてそんなことを考え始めた。ちょっとした変態である―いや違う誤解だ。
結論からいってしまえば

 女子高生の可愛さとは制服にある。
 だからセーラ服を脱がさないで♪という歌詞は圧倒的に正しいのだ。

 制服という「記号」がある―こういう文章を書く人たちが大嫌いだ。記号という魔法の言葉を使って語らなねばならない複雑なことを全て私は語れた!という気にさせるドラッグに溺れているヤク中だからだ。
 話が脱線してしまった。しかし制服というものほど記号という言葉と相性のいいものもないだろう。
制服は一目見て様々な情報を与える。警察官の制服や電車の運転手の制服、これらは様々な能力や権利や義務といったものを纏めあげてひと目で理解させる機能を持つ。まさに記号だ指標である。「火のないところに煙は立たない」の煙だ。
 煙をみれば、その元に火があることが分かるように、制服をみればその制服を着ている者の役割などなどが一様に明らかとされる。便利な道具だ。これを記号であると言わずになんといえよう。

 ただ今回の趣旨はそういうことを言いたかったわけじゃないんだ。
 趣旨は女子高生の可愛さとはどこにあるのだろうか、である。
 結論はそう制服にある。
しかしこれはいささか端折り過ぎだろう。答えを急かしてもいいことはない。

 さて、魅力は制服にあると書いたのだが、しかしかといって制服それ自体に魅力があるといえるのだろうかちょっと待って考えてみてほしい。もちろん制服それ自体が大好きな人はいるのだろうが、たとえば今は懐かしブルセラショップで制服を求めていた諸氏はそれでは制服それ自体に魅力を感じていたのだろうか。そうではないだろう、あれはうら若き女子高生が、女子高生が着ていたからこその制服であり、だからこそ数万円も払って買ったりしてしまうのだろう、それだけの価値があるとおもって飛び込んで匂いを嗅いだり保管したりしてしまうのだろう。
 そう、全員というわけではないが、ブルセラショップ愛好者もまた制服それ自体が好きというわけではないのであると断定してしまう。

 物自体、ただそれだけに欲情したり価値を認めているわけではないというのが女子高生の制服というものであろう。
それじゃあやっぱり女子高生それ自体に価値があろうかと問われると、いやちょっとそれは違うだろうと私は思うのだ。
たとえばある女子高生の女の子が日曜日に私服で出かけているのはかわいいだろうか、まー可愛い子もいるだろうがそれは女子高生としてかわいいというわけではないだろう。それはその子がかわいいということにほぼ終始するだけであろう。
 そうではない、今話しているのは女子高生のかわいさについてだ。ある女の子がかわいいかわいくないだの話をぐだぐだと展開したいわけではないのだとうことをどうか理解してほしい。可愛い子は制服を着ていなくても可愛いのだそれで全てなのだ。

 それではだ、制服それ自体が魅力的であるだろうが、制服それ自体がかわいいわけではなく、また中身の特定の女の子がかわいいかわいくないを問題とはしないだとしたら、魅力とは可愛さはどこにあるのだろうか。
 先ほど制服は記号だといった、確かに記号と見なすことも出来る。しかしより端的に言えば制服は女子高生という意味内容を導き出す取っ掛かりにすぎない。それはブランドに近いものである。しかしそれ以上に女子高生という概念は物語がある歴史があるハイパーブランドだ。

 それは例えばヨーロッパとか和とかオリエンタリズムに近いものだろう。女子高生というものには何か自分勝手なロマンと積み重ねられた物語がある。その女子高生という内容を一瞬にして喚起させるブランドロゴこそが制服なのである。
 女子高生はそのブランドロゴである制服を着ることによって女子高生となる。警察官が制服を着て警察官になるようにだ。
 女子高生達は女子高生という概念で武装して、着こむことによって可愛くなる。彼女たちは女子高生の奴隷になることによって主人公になる、魅力的に可愛くなる。女子高生のなかで女子高生達は女子高生となり輝き苦しむのだ。制服を着て女子高生達は女子高生と自分達の存在を約束されるのである。

 それでは女子高生の可愛さとはどこにあるのだろうか、それは女子高生という概念、物語などにあるということになってしまうのだろうか?
 バカを言っちゃぁいけねえよお前さん。女子高生がかわいいのは女子高生だからだ、っで許されるわけがないだろう。それではどこにあるっていうんだい?制服それ自体にも、女の子それ自体にも、女子高生って概念にもかわいさってのが無いんだとしたら、いったいお前さんはどこに女子高生の可愛さがあるっていいたいんだい?
 それはねお前、女子高生の可愛さってぇのは、制服を着ているってところにあるんだよ。
だけどよおまえ、女の子が制服を着てるってだけならエロいサービスのお店にいる女の子達だって女子高生の制服を着てるじゃないか!でもそのかわいさは女子高生の可愛さとは別物じゃねーかいこれは一体どういうことなんだ。
 それはねお前、女子高生の可愛さってぇのは、制服を脱がないところにあるからだよ。

森美術館における「会田誠展」の性暴力展示に抗議を、について私的見解

 Twitterで話題になっているこの問題について自分の考えを述べてみたいと思う。だいぶ感情的になってしまっているが、これも記録だと思って公開することにした。

 今回問題とされているのは会田誠の「犬」と題された以下のような作品に対して、この作品は「児童ポルノであり、少女に対する性的虐待、商業的性搾取」*1であるとして抗議されたことだと前提して話をすすめます。
f:id:Sebastianus:20130129141504g:plain

 この問題に対して私が注目するのは、まず抗議をした方々の解釈に対して、そして彼らがその解釈に則って抗議をしたことについてである。端的にいえば、彼らの行動は間違っているのかについて私的見解を述べてみたいと思います。

作品に対する解釈について

 抗議をした方は会田誠の「犬」と題された作品を児童ポルノとして見ている。彼らの言葉を借りれば、会田誠の一連の作品は「少女に対する性的搾取に積極的に関与」しており、「少女および女性一般を性的に従属的な存在として扱っている社会の支配的価値観に全面的に迎合し、それをいっそう推進するものに他」ならないとして、森美術館に抗議をし作品の展示の撤去を最終的には求めていると理解できる。
 まずTLでこの問題の話題として語られているのは、上記のような作品解釈は誤りであり愚かなものであるという態度の発言が幾つかみられた。しかし果たして、こうした彼らの作品解釈は誤っているだろうか。残念ながら、彼らの作品解釈を誤っているという根拠を提示するのは困難であろうと考えられる。たとえ作者が、この解釈は間違っていると公にしても、既に作品は作者の手を離れ人々の自由な解釈の目に晒されてしまっている以上、この作品の解釈に正しいものはあるといえるどうかは実に論争的なものとなるだろう。たしかに、多くの同時代の方の賛同を得られる一定の解釈はありえるだろうが*2、そうでない解釈の可能性は常に開かれているだろう。特に芸術作品となれば尚更その傾向はたかくなってしまうのではないか。ある解釈を間違っていると断定できる、正しい読みを正当化できる権威や根拠をどこに置くことが出来るだろうか。またその根拠をもって、彼らの発言を打ち消すことは正当化できるであろうか私には疑問である。
 つまり何が言いたいかというと、今回の抗議に対して、抗議した者の解釈は間違っている馬鹿だと揶揄しても、問題は一切解決しないだろうと私は考えるということだ。逆に一定の解釈しか認めない狭さに胡座をかいてしまえば、それこそ敗北は免れ得ない結果になるだろう。抗議した方の解釈がかなり屈折したものだとしても、そうした解釈は十分にあり得ると考えられる。自由な解釈から導き出された理解を常識や一般的に考えれば誤った理解であると否認したとしても、抗議の声が止むことは期待できないだろう。

抗議という運動について

 次にそれでは彼らが自らの解釈に則って抗議という運動に乗り出したことについて述べてみたい。
 こうした行動に対してネットなどでは冷笑的な態度の者もいたが、それは誤りであるだろう。また彼らの抗議を表現の自由を侵害するものであり、認められないのではないかという問いかけがあった。
 確かに彼らの抗議は作品の撤回を求めているものであるが、それが即ち表現の自由を侵害するものであるだろうか。その判断は早急すぎるだろう。彼らの行動が表現の自由を制限しようと意図したものであったとしても、実際に表現の自由の可能性が開かれている限り、その抗議の声もまた自由として認められねばならないのではないか。抗議した者達は少女や女性たちの自由を拡大するために、彼女らの権利が踏み躙られないために行動したのだと十分に考えることもできるだろう。
 自由や権利は人間に生まれながらにして備わっているものだとしても、自由や権利はもともと運動によって戦いによって市民が勝ち取ってきたものでもある。彼らの考える自由が、私の考える自由と違うからと言ってその自由のための行動の禁止を求めることの方が許されないと私は考える。
 彼らの抗議は確かに表現の自由をいくらか侵害する可能性があるが、その可能性を持って運動することを否認することは許されないだろう。そして幾らか公開する場所や機会としての表現の自由が害されたとしても、作者が自由な作品を描く自由や限定的に公開する自由まで侵害されるわけではないのであると考え得るのだから、やはり彼らの行動を否認することは自由主義社会においては決して許されない行為であると私は判断する。
 もちろん、抗議した者達の解釈は誤りであり、この作品の意図は云々でありあなた達は誤解していると訴え、抗議者と戦うことは十分に可能であろう。会田誠本人も



といっているので、対話や討議の可能性は十分に開かれているという期待を胸に、締めとしたい。

 
 

*1:森美術館への抗議文http://paps-jp.org/action/mori-art-museum/group-statement:title

*2:国語のテスト問題における正解とされる解釈のような

(無為の)共同体について―めも

 ブランショとナンシーを読んで

 まず留意すべきことは、彼らのテーマである共同体とは、社会学や政治学であつかわれる共同体とは少々性格が異なるということだ。ここで扱われている共同体とは、それらよりも根本的なあり方、日本語にすれば共存や共存性に近い意味のものである。
 彼らの説く共同体というのは、単一の価値規範に則るという意味における共同体を批判している。そして共同体を「共にあること」に目を向けることによって共同体とは何かを明らかにしようとしているのである。
 合理的共同体―個々の明晰な精神はその共通の言説の代表者でしかなく、各人の努力と熱情はその共同の事業のなかに吸収されて脱個人化してしまうような共同体*1を批判し、それとは別の共同体のあり方を論じている。
 そう、伝統的な自己同一的な主体のカテゴリーに基礎を求める共同体批判なのである。複数であり単数である存在において、それらを排他的な私たち≒合一なものとして語らない方法を探る。そう、共同体というよりも共存について語っているのである*2。何かを共有している、たとえば文化であったり価値規範や偉人といった何かを共有している共同体のことではなく、なにも共有していない共同体―ブランショジャン=リュック・ナンシーが語るそれは非同一性の共同体である。


 私にとって何よりも興味深かったのは、西洋近代意識の一つをなす、失われた共同体という意識、この意識は幻想にすぎないのではないかという問いかけである。そしてまた、この「喪失」という体験によって共同体を成り立たせているという問いかけである。
 J=L・ナンシーは、ルソーの語った自然状態のような「原型共同体」への希求が常にヨーロッパにおいては存在し続けていたとする。しかしそんなものは幻想であり神話であるにすぎないのではないか。そして、そんな想像上の神話を幻夢を理念とすると、現実との齟齬の間で摩擦が―暴力が発生するのはあきらかであると考える。近代ヨーロッパはルソーから始まって、失われた共同体という幻想を作り上げてきたのだ。(合一の内在性と親密の)「喪失」そのものが共同体を成り立たせているのである。
 内在や合一的な融合がもつ論理は、死に準拠した共同体の自殺の論理だ―ナチをみろ*3ヘーゲルもまた国家という他者が真実をもつとする点で危険なのである。死は止揚されはしないのである。
 失われた合一への郷愁、ヘーゲル的な欲望(承認の欲望)このような意識を私の意識としてもつことはできない。そこでは複数でありながら単数である私たちは、私という主体は融合状態の中で単一の共同存在・無名の私たちに作り変えられてしまう。
 その危険性に対して警鐘を鳴らしているといえるだろう。国家や宗教の正義、または人間は生産者として人間になるというイデオロギー、こうした理念のもとに運営される共同体・社会が過去においてどのような運命を辿ったのか言うまでもないだろう。

 では共同体とはなんであろうか

 それは上記のようなのではなく、私の意識というのはむしろ共同体において共同体をとおして―共同体のコミュニケーションとして―しかもちえないのである。自己の外の体験の空間それ自体であり、その空間化にほからないものとしての共同体なのである。それは集団的無意識に似ているかもしれない。
 つまり「共同体は個としての存在の欠落部を補填するものであるべきではない」のである。しかし個人の存在においては常に欠落・不充足がつき纏っているではないか、不安があり充足・従属を求めてしまうではないか。その不充足に(不安に)ナンシーとブランショは注目する―それを共同体の根本に据えようと試みるのである。彼らによれば不充足、それは*4原理である。そして原理であるとは、ある存在者の可能性を統制し秩序付ける者ということとされる。この不充足の体験には他者の存在が不可欠である。そして共同体とは、こうした不充足を感じさせられる常に再確認させられる場のことを指す。差異が露呈され、分割される場といえる。死に向けて秩序付けられたものが、共同体のあり方であるとされるのである。そして死は独りでは起こらない、それは共同の、他者の存在を必要とする出来事である。
 こうは考えられないだろうか、死というこの不安・不理解・非同一の体験、こうした不充足が共同体の原理であり、それゆえに過去・現在我々が見てきたように合一や共同の価値や歴史・民族を求めてしまったのである。共同体は死と深く結びついている。それは死が露呈する有限性、個の有限性である。有限性のある孤立した個は、そうした不安や有限性ゆえに共同体に帰属し統合を保証され安心を得てしまった―それで幸福に至れると考えられていた。死によって無に返ってしまう個は、共同体に属することによって意味を永遠の生を獲得できるという甘美な幻想によって、個の死は共同体の死に回収され、共同体は死を欲するのである。
 死といわれても分かり難かったら―たとえば私と昆虫の関係をみてみよう。いやそれよりも、『無為の共同体』の日本語版「私たちの共通の果無さ」で語られている、私と外国人という関係で見てたほうが分かりやすいだろう。おそらく私と彼には共通の表面がある、しかしその共通の表面には属し得ない場所がある、理解しあえない場所がある*5。この私と彼や昆虫との間にはどうしようもない溝が、割れ目が引き裂きが横たわっている。おそらくはこのような体験このような場所―そしてまた同時に、私と彼の経験がこの無為な何も生み出さない(かもしれない)割れ目を分有すること―によって私と彼は「共に在る」、今のこの時私と彼を結びつけているのは他の何ものでもない、この割れ目である。この非同一性によって共にあること、割れ目を分有することが共同体のあり方である。

 たしかに、共同体はある合一*6への、融合状態へ向かう傾向がある。融合の内に自己が滅却され、それによって(ルソーやヘーゲル的な)自由が得られるような共同体がある。しかし共同体は至高性の場ではない、バタイユはそれを嫌悪し、不充足な状態を重視した*7
 また共同体は複数で存在するという意識を分かち合い共有するだけにとどまらない。不充足は満たされることによってますます欠如が過剰を求めている*8。共同体は、共有の機能を停止してしまう誕生と死という出来事が共有されなければありえないのである。他人の死に己を晒す、他人の不在、これこそがコミュニケーションの基盤である。共同体は孤独を癒すものでも保護するものでもない、彼を孤独にさらすそのあり方である。死を共有すること、死を個人の死でしかないものとは扱わないこと、それが鍵となっている。
 
 共同体は抽象的な非物質的な何かによって共同体になるのではない。共同体は営みの領域には属さない、それは生み出されるのではなく有限性の体験として体験される。同一性に還元され得ない差異・溝・隔たり、それは死によって、それは不理解によって体験される。これが分有である、それは決して私有でも、共有でもない共に出現する共に体験される境界線、または場みたいなものといえるかもしれない。この体験される場こそが共同体なのである。それはまた、アレントのいう「間」に似ているのかも。そういう意味では共存ともいえるし、共同性的なものともいえるのだろうか。

 合一の代わりに、差異を自己解体を迫られる他者とのコミュニケーションがある。

 そして「ともにあること」とは、分割・分有であり、それがバタイユのいう死なのである。共同体の根本的なあり方は、この死―私のものには成り得ない・理解できない―という体験なのである。それは決して合一・融合という体験にあるのではない。また共同体は共同の実体でもない、それは他者とともに誰があるということ、一緒にいるということなのだ。
 
 

おそらくこんな理解で大きな誤りはないだろう、哲学から離れていたが、主体や共同体そのもののあり方に大しての問題定義、とくに喪失の共同体観に関して私自身疑問に思っていたので思わぬブレイクスルーを得た気分だ。エスポジト読んで必要性に駆られたというのもあるが、たまには哲学に立ち返るのは有益だと再確認させられる。
 

〈メモのメモ〉
 

 共産主義(communisme)と共同体(communaute)前者には近代における生産が、後者には無為・働かないが関連する。営み―作品の彼方にあり、営み―作品から身を引き生産することとも成就することとも関わりを持たない。共同体と共産主義は今日の日本だと結びつき難いかもしれないが、この時代では切り離し得ないのである。ヘーゲルヒューマニズムなどにも留意するといいだろう。生産者としての人間という共産主義のイデオロギーへの帰属、人間は生産しなければならないという思想に対する反発としての無為といえるだろう。ルソー・ヘーゲルハイデガーへのアンチテーゼといえるだろう。

恍惚はバタイユにおいては内的体験でありながらも、自己が外におかれること。供犠=交換・コミュニケーション

 「分有とは次のような事態に対応している。すなわち、共同体は私に、私の誕生と死とを呈示することによって、自我の外にある私の実存を開示するのだ。とはいえそれは、あたかも共同体が弁証法のモードや合一のモードに則って私にとって代わるような別の主体であるかのように、共同体においてあるいは共同体によって再び投じられた私の実存ではない。共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈とは別のものではないのだ。(中略)有限性こそが共同体的「であり」、それ以外の何ものも共同体的ではないからである。」(ナンシー49)

エスポジトは、主観主義的な主体観によって基礎づけられている点において共同体主義自由主義も似たようなものであると批判する。たしかに、共同体として共有している意識に基づく「正しい」に依拠して生きろという共同体主義は言わずもがな、自由主義もまた多様で自由であるべきと要請する。「多元性と寛容は結果として実現されねばならないのであって、めざしてはならない。それをめざせば、すなわちテロスとして理論内容に取り込んでしまえば、当の理論が種々雑多な声に混じって生じる微細な声のひとつであり、そのようなものとして事実的にのみ多元性を実現しているのだということが忘れられてしまうからだ。」*9とは言っても、彼が批判するような問題は確かに抱えているのかもしれない。

共同体≒コミュニケーション空間ともいえるのだろうが、それはハーバマスの語るような討議空間・理想的な発話状況のそれとは異なると考えられる。似ているのを示唆している方もいたが。

 共同体において喪失が感じられ、その充足をどうしようもなく必要としてしまうとして、現実的な共同体においてそれではどうしたらこの不充足を、同一や統合に陥らずにマネジメントできるんだろうか。

アルフォンソ・リンギス 『何も共有していない者たちの共同体』序文
http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27028pre.html
参考にした――こっちのが分かりやすいorz
http://www.saysibon.com/yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm

*1:リンギス:2006

*2:ここで否定されていう共同体とは、分かりやすく言えばサイードのオリエンタリズムのことであろう。そしてその西洋または東洋という代替不可能性のことではないか

*3:コミュニズムもナチズムやファシズム等は、いや現代の一部国民国家も、個を超える共同体の(上位の)価値を掲げて、個人の不安を利用し大衆を動員してきた

*4:共同体の?

*5:理由はなんでもいい言葉が通じないとか、過ごしてきた文化が違うとか―でもそれでも過コミュニケーションは生じているとか云々

*6:神と一体となり融け合うこと

*7:とはいっても、共同体は共同体である限りにおいて融合状態・合一へ向かうことを止められないのではないか

*8:ヘーゲルにおいて自立した自己は他者からの承認をめぐる死を賭した闘争によってえられる

*9:http://socio-logic.jp/baba/os/os00.php

けいおん! 別れを受け入れ―近代を超克するモデルとしての放課後ティータイム―

 けいおん!のアニメ一期、二期と映画を見た上で私の立場を明らかにしておきたい。けいおんというオタク向けな深夜放送アニメに成熟やら内面が描かれる必要性はないと思う。そういう作品が見たければ、そういう作品をみればいいだろう。いくらだってある。そういった批判は全くクリティカルでもないし、まったくもって不毛であるだろう。しかしまあ、不毛なことをしてみよう。
  
 けいおん!」にも内面はあるんじゃないか

 「けいおん!」とは、ちょっと変わった女の子たちが自分の居場所を求めて静かな闘争を繰り広げている物語であると私は読む。異性という居場所から閉めだされてもなお、女の子たちは居場所を求めて日々戦っている。
 「けいおん!」はどうやら日常系らしい、よく知らないのだが恐らくつまり、特に大きな事件も起きなければ特別に変わった世界でもない、どこかにありえそうな世界観とその日々を描いた作品のようなことがいいたいのだろうと思う。
 さてそれでは、私的に見た限りでは「けいおん!」は第一期と二期ではその性格がだいぶ異なる。端的には、一期は成長と漠然とした不安と居場所を見つけることが描かれており、二期は居場所で内部で楽しむことがメインとして描かれているのではないか。
 成熟というのが何を指すのかよく分かっていないのだが、二期は5人の関係性が一つの一旦は完成された共同体となった後の物語であると私には感じられる。つまり二期の彼女たちは、彼女たちが一つの共同体となり、そこから外とのコミュニケーションより内なるコミュニケーションを交わしながらの自己保存が目的となっているといえる―その目的のために自己改革が静かに少しずつ進行している様が描かれているのではないか。

 実際に作品を見てみよう

 たとえば唯に死や内面がない云々と言われているらしいが、もしかしたら作品を通して彼女があまりに自由奔放であるが故にそう映ってしまったのかもしれない、もしくは作品をちゃんとみていないだけだろう。しかし一期をみれば、彼女が高校生活に胸を膨らませ、一歩踏み出し何かを始めたいと思いながらも、自由であるがゆえに青春をどう過ごしたらいいのか分からない姿や、テンポ悪くて使えないドジっ子と評される彼女がコンプレックスを抱えながらも、以前褒められたことがあった「うんたん♪」(カスタネット)を切っ掛けとして、そして3人が奏でる「翼を下さい」を聞いたことによりキラキラとした青春の光景に心を奪われ、そのキラキラへ自分を放り込む決意する姿が丁寧に描かれている―ように私にはみえる。得意なものも特徴もない冴えない少女が何かを見つけるため、ちょっと頑張ろうとする。「けいおん!」の一話目はそんな感じで始まっている。「みんなのために」安いギターを買って早く練習できるようになることを選んだ彼女は、おバカってイメージとはかけ離れており、不安を抱えていた唯が自分の輝ける居場所を見つけ、バンドの中で自分を確立していくさまが描かれている。ただ唯は音楽に出会えた幸福と、好きな事に熱中できる才能があった。
 彼女は軽音楽部にて「私にもできることが、夢中になれる大切な場所」を見つける。自信のない女の子が自分を見つける瞬間が、心配ないよって過去の自分に語りかける姿が描かれている。これは内面じゃないんだろうか。
 
 唯は確かにゆるい、しかしそれは内部の人間に見せるものであることに、没入してしまったファンは忘れてしまうのだろうか。もしかしたらそれこそが、ファンの望みからであるかもしれない。ただ彼女もコンプレックスや不安を抱えるどこにでもいる少女であることは作品をみれば明らかだ。
 一方で唯は中学の関係から卒業し高校で新たな関係を築き、バイトなどもして少しずつではあるが自立し、そしてギターが弾けるようになるまで成長している。友達・部活・勉強そして遊びと文化祭!高校生活の全てを謳歌する、まるで少年漫画や美少女ゲームと同じように―目標は武道館!とかいっちゃったりして。
おそらく一番に自由で軽いように表現されている唯が放課後ティータイムという場所を必要としているかもしれない。もちろん断言はできないが、少人数で内輪でゆる~く練習できる場所であったことは、彼女にとって大きかったかもしれない。唯は歩みはカメのようにノロイが、軽音部で成長した大きくなった、ましになった。将来に悩む、やりたいことがない彼女は、小さいながらも目標と場所を見つけ実現させている。
 もう一方の主人公あずにゃんはどうだろう、私は彼女こそが放課後ティータイムで一番重要な存在であり、それは5人の関係を不安定にさせる重要な装置であるからだ―それは新学年が来るたびに「けいおん!」の関係を揺るがすからである。中野梓が4人の中に入ることによって、彼女たちの関係性は一度かるく壊され新しく生まれ変わり放課後ティータイムとなった。この模様は、一期の前後を見返せば分かってもらえると思う。同じ様なことを繰り返しているように見えて、あずにゃんが加入したことによって変わっていった彼女たちが、放課後ティータイムを結成しその中で戯れているのだ。 

 けいおん!における別れ

彼女たちは終わりがあることを見えていないのだろうか、この作品はそれを隠しているだろうか。いや、そんなことはない。二期の一話目で来年は卒業しあずにゃんが一人残されることを憂いているメンバーの姿が描かれているではないか。また、あずにゃんはあずにゃんで来年には終わったしまうことを受け入れつつも、今はこの5人でいることを肯定する。この時点では、彼女たちは終りが来ることを隠しているのではなく、終りが来ることを了解しながらも今を肯定している姿が輝かしく描かれているのではないだろうか。二期は、主に内部に焦点が当てられている。あまり関わりあいの描かれなかった、紬とメンバーとの絡みも増えていた。
 一期の8話では2年生のクラス替えで澪だけが一人になってしまう姿もみられるし、第二期でも別れは事ある毎に描かれている。そして後輩が誕生したことにより不安定感がましたり、喧嘩があったり、ずっと一緒じゃない未来もまた描かれている。。
 演出上、エモい感じを出すためかもしれないが卒業や別れ過去(思い出も)、終わってしまうこと、そして自分たちに似ている人の未来の姿―さわちゃんと高校の頃バンドメンバーとの関係―が二期には散りばめられている。例えば10話では、サワちゃんのバンドが生きていることが示されている。
 また彼女たちが別れず、同じ大学に進学したのは12話で語られている―これからもずっとみんなでバンドできたらいいね、という夢を叶えていくためと捉えられるのではないか。彼女たちは死≒別れを直視し、その上で夢と現実を見据えたのではないか。彼女たちが進学しても別れないのは、モラトリアムを延長するヌルさ故ではない、より成長へと向かう夢を実現させるためのポジティブなものではないかと私にはみえる。そして彼女たちは現実に、目の前の目標を実現させている。

 またもう一人の主人公である、あずにゃんが別れが来ることを意識しているのは明らかだ、そしてその上で同級生の2人より先に行ってしまう先輩たちを選んでいる。二期の13話における比較はかなり露骨だ。そして花火を背景とした4人の姿を見て彼女は「また私夢見ているのかな」と追いかけ、そのあと4人とあずにゃんがはぐれてしまい同級生の二人と合流する描写は、先輩との日々の終わりを・残されてしまうことを示唆しているのだろう。しかしはぐれてしまっても彼女は「大丈夫だよ、きっと」と答える。一人になってしまう不安を漠然と抱えながら…この話では先に行ってしまう4人と残される1人の対比が描かれているではないだろうか。5人の関係性に今までと違った距離感が生じているのが描かれているではないか。
 Y & Iには、いなくなって初めて大切なものの有難さが分かる旨が綴られている。3回目の文化祭ライブが終わると、次はないこと、軽音楽部の生活が失われてしまうことに、みな涙している。そして、その別れを乗り越えるために一緒の大学に行くという決意が21話ではなされた―推薦をやめて―別れが4人の方向性を結束させた、同時にバンドから外に出ても一緒という意識が強くなる。

 死≒別れ、という具合に解してもよいのならば、けいおん!には至る所に死が描かれている。それが視聴者を感動させるため機能しているではないか。2期の最終回付近や映画のラストには別れと始まりが、飛び立つ者と残される者の明確な線引きがなされている。 
 

 共同体としての放課後ティータイムと「けいおん!

 ここからは独自の視点と現代思想を絡めてなんかちょっと小難しく権威付けて当てつけっぽく、けいおん!を読み取ってみよう。アニメ版けいおん!は5人が共同体(コムニタス)として近代のアポリアを超克していくストーリなのではないか。細かいことは抜きにしても、第一期の前半は―後半も通して―軽音楽部が放課後ティータイムというバンドとしての姿を形成していく、ふわふわポジティブなストーリーである。あずにゃんが加入することになってから放課後ティータイムとなる流れは5人で一つのバンドであることを示唆しているだろう、それは作品内でも名言されている。このバンドは、あずにゃんが一年かけて去年4人が経験したことを一緒に追体験することによって確固とした共同体となる。そして第二期は、ある程度の同一性を獲得した5人による透明なコミュニケーションが延々と流される―というような解釈をよく見るが、実はそうではないと私は批判する。
 放課後ティータイムは、そのメンバーである中野梓、あずにゃんという存在を鍵とする。彼女は放課後ティータイムという共同体における同質なアイデンティティを共有する構成員でありながらも、同時に敵であり客であり他者に変身できる。それは下級生という立場によって否応無しに変身させられる・意識させられるのだが、彼女を取り組んだことにより、放課後ティータイムは伝統的な共同体観を飛び越え、現代に要請されるような共同体へと成っていく。エスポジトによれば伝統的に共同体とは自己同一性に―同じであることに―基礎を求める。こうした共同体は自由主義であっても共同体主義であっても、どちらも自己の所有権に閉ざされた個を志向しまうことになると言う。こうした共同体観はグローバル化し移民と他者との距離が近くなった今日多くの問題を孕んでしまう。
 共同体は類似性・同一性といった観点から捉えられるのが伝統的である。しかし「けいおん!」で描かれている共同体のあり方は、その伝統的な共同体を超克する可能性を秘めた可能態とみなせるかもしれない。
 話を戻そう、一見すると「けいおん!」は集団のカラの中に閉じこもった物語とみなされるかもしれない。たしかにそういった性格が―均質なアイデンティティが―あるのは間違いないし、作中でも5人の結びつきが強く外から入りにくいことは言及されている、しかしそれだけにとどまらない。あずにゃんが加入したことにより、バンドは同一性のみならず免疫機能を発動することになる。あずにゃんは外からやってきた、そして部活のあり方に疑問を投げかけ部のアイデンティティを揺さぶり、卒業を機に別れる高い可能性を有する存在である。あずにゃんは、放課後ティータイムの自己でありながら、その外部に飛び出せる存在であり、彼女がいることによって否応なしに放課後ティータイムは(別れという)外部との接触や伝染に晒される。彼女を取り込んだことによって放課後ティータイムは共同体として確固とした存在になったのではないだろうか。そして彼女を受け入れたことによって放課後ティータイムは過度な自己免疫化を逃れ、内向的で攻撃的でないふわふわだけどしっかりと結びついた最高のバンドになっていったのではないだろうか。
 この共同体のあり方は今日大変興味深いものである。内部において多様でありながらもある程度均質なアイデンティティを共有し、集団の救いを他者の破壊へと向ける必要のないことは、他者の死を必要とせず生を追い求め続けることができる、*1つまり近代を超克しているのである――という以上のことは当てつけである。
 ビオス(集団に固有の生の形式)はあずにゃんを抜いた4人のなかで既にだいぶ確立されていた。しかし、あずにゃんを孕むことによって、対立する免疫システムの緊張関係を維持しつつも、それが新たな生の出生となっている。あずにゃんが放課後ティータイムを完成させ、同時にあずにゃんが放課後ティータイムを開放し危険にさらす。そうした不安定さが許容されることによって、放課後ティータイムはより確かなものへと安定していく。
 危機や他者は、死と隣り合わせの死へと向かう戦いではなく、生へと向かう戦いを志向する。つまり異分子と接触することによって、胎内に取り込むことによって開かれた共同体のモデルとして放課後ティータイムをみなせるのではないか。彼女たちのゆるさ、確固とした自己がない曖昧な感じ、しかしそれゆえにアイデンティティを共有しながらも、確固とした均質なアイデンティティに固執することもないのである。
 私は放課後ティータイムとあずにゃんは「互いに、相手なくしては存在し得ない内在的な対立物」なのではないかと読む。始まりとは自らの内に反対物(≒死)を孕むことである。つまり機能的に特異なあずにゃんを迎え入れることによって、放課後ティータイムは始まったといえるだろう。
 一時の別れ、それは確かに低い跳び箱かもしれないが、彼女たちはそれを飛び越えていく―世界を変えてしまうような大きな問題に出会わず、無理に高い壁を設定せず。彼女たちの足取りは危なげないが、でもしっかりと飛び立つ。あずにゃんがくれた翼を広げて。そして、あずにゃんに翼を授けて。



 ただ、このような共同体は架空の世界でしか描けないのではないかという不安もよぎる。けいおん!の世界には親が登場しない、男も大人もほとんど登場しない。それは役割としての親や大人を必要とするほどの問題が生じないからではないか。あの共同体は所詮架空の世界でしか…とネガティブに捉えられることもできるだろう。しかし、可能態はそれでいいのであると私は思う。あの共同体を実現するのは大変に困難で不可能に近いかもしれない、しかし、ああいった共同体が描かれることによって、我々はその現実態を想像することができるかもしれない。
 また同時に卒業という別れの強制的装置によって適切なモラトリアムを経験するよう助けられていると解することも可能だろう。内部で固まりすぎず淀んで腐ってしまわないようにする機能を卒業は有しており、放課後ティータイムに固執するあずにゃんに別れを受け入れさせ、彼女とバンドの成長を促しているようにも、学校という制度を肯定しているようにも思える。

 また、たとえ大きな問題のない会話だけのアニメであったとしても、それにもかかわらず我々をあれほど魅了した「けいおん!」はふわふわにすてきな作品であることに間違いはないだろう。





よだん!

 余談だが、この共同体は環境の変化に対して内部の配置を変化させることによって対応するシステムのようには見えない。どちらかといえば、この共同体はどこにいっても、いつもの自分たちを貫ける強さがある。しかし同時に確固たるアイデンティティは、ふわふわなところにあるので敵対的ではない。放課後ティータイムは均質なアイデンティティを共有しつつも他者と別れを内部に取り組むことによって、共同体として成熟し確かな外殻を手に入れた。つまり自己免疫機能が常に少量の危機に晒されることによって、自壊してしまう危険性を調整しているのである。その少量の危機を常に提供してくれるのが、内部のあずにゃんなのである。あずにゃんという後輩を排除しなかったことによって、放課後ティータイムはバラバラになることなく、環境変化にも強い共同体なり得たのではないだろうか。
 ただ同時に彼女たちの自己愛も強い。あずにゃんへの歌を、喜んでもらえるかをとても気にかけている―ロンドンで大して緊張せず演奏してしまうメンバーがである。彼女たちにとって一番大切なのは内部であることの表れであろう。それ故に、この共同体の中に入れば、澪がメンヘラになることは無いと思える。

 また余談だが、やはり作品はしっかり見るべきだろうなと思った。今回の批評では後半よりも前半のほうが書くのが大変だった、全話をいちいちチャックしながら何度か見返すのは骨が折れる。逆に後半は、それっぽい現代思想を作品の何かにむりやりねじ込んでしまえば骨格は出来上がってしまった。楽ちんだ―ぶっちゃけ当てつけ以外の何物でもない。放課後ティータイムが近代を超克できるモデルだなんて語ることは入門書を片手にできる。
 批評というものが何であるのか私はあまり興味が無い。しかしやはり作品に誠実であるべきじゃないかと思う。ある政治的・学術的な考えを、予めある考えを主張するために、作品を歪めてみるのはどうなのだろうか。キャッチーな作品であれば読まれやすいのは理解を示せる。しかし社会的なことをいいたいのなら社会批評をすればいいのだし、構造などを明らかとしたいなら、巷に溢れる煩雑な作品や面白くもない沢山の作品と格闘する必要こそあるのではないだろうか。
 もちろんたしかにオリジナルなきシミュラークルといった円環・螺旋のなかからコピーコピーコピーを繰り返し、そのなかから要素を取り出しなにか新しいものを紡ぎ出すという作業は創造的であると思うが。


追記

「アニオタ保守本流けいおん!全員女子大進学問題をdisってみた」http://togetter.com/li/51774
けいおん!という病。”全員女子大進学問題”を考える。」http://d.hatena.ne.jp/aniotahosyu/20100921
こういう態度の人たちを私は批判したかったんですかね。ちょっと違う気もするけどメモとして

*1:ただ自己愛は激しい感じもする

NGOとテロリスト―国家を超えて戦う者たち(メモ)

NGOとテロリストやテロリズムは似ているかもしれない。
 それは彼らが国家を超えて戦う者たちである、という点においてもそうなのだが、シュミットが提唱した「現実的な敵」と「絶対的な敵」という区別においてより明確になる。
 NGOもテロリストも冷戦が崩壊しグローバル化が進行する今日の社会でその存在感がより一層増している―もちろん彼らはそれ以前から活躍し成果を挙げているが。彼らはグローバルに既存の国家や社会の境界線を超えて、彼らが「絶対的な敵」とみなす者たちと闘争を繰り広げる。そのあり方は、既存の資源や領土を巡って争う戦争とは明らかに異なる形態をとり、既存の概念や制度を機能不全にまで陥らせるだけの力がある。
 もちろん両者は必ずしも反体制というわけではない、体制を崩壊させることを目的としているとは限らない。また社会主義革命を志向しているわけでもない。しかし彼らは共に、彼らの信じる正義を実現するため悪の打倒を志す―その敵は国内にもいれば国外にもおり、固定した民族や宗教や国家を敵とするわけではない。
 このあり方はジョン・アーリの「社会を超える社会」やネグリが示した「マルチチュード」に似ている。それらは地域規模で闘いながらも「地球規模」の攻撃性をもつ。しかしまた一方で、このあり方は企業や政府を相手に戦った市民運動とも酷似しており潜勢力の一般的な形態にすぎないともいえるだろう。
 
 つまり両者の違いといえば、NGOが専ら物理的非暴力を掲げ民主的方法を採用するのに対して、テロリストが物理的暴力をその方法として採用している点にあるにすぎないのではないか。
 ともに「絶対的な敵」を見つけ、ネットワークを形成し、内なる敵にその暴力性がむけられたり、境界を超える文化的な対立も辞さない態度、こういった特徴は両者にとって不可欠なものであり、それ故に私はNGOとテロリストは類似すると思いついたのである。

ん~~~あてつけっぽい!むりがあるorz
ここからどう発展するかも見えてこないorz

追記
 ただ、一方が信じる絶対的な敵は西洋・先進国において受け入れられる可能性が高く、もう一方はイスラムによって受け入れられる可能性が高いという緊張関係にある。NGO VS テロリズム という文化対文化の対立は既に登場しているし、この問題はある地域における司法によって安定した処理を下すこともできるが、汝の正義とは何かという大きな判断を迫られる問題と今後益々なっていくだろう