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異質と同質

 なんか格好いいタイトルになってしまったアワワ ヽ(´Д`;≡;´Д`)丿 アワワ

 社会秩序を形成するためには同質性が必要である。または一つの何かへの帰属意識やアイデンティティが欠かすことができない。このような思想を前提とした方々はかなり多い。
 社会学において、近代社会の解明という点において、近代と前近代(伝統)を分けるものとして異質性と同質性がよくあげられる。
 伝統社会においては人々は同質的であり親族や地縁・血縁といった第一次的関係にあり、近代において(または都市において)人々は異質的であり、親族や地縁からはなれた一時的な関係である第二次的関係が増大するといわれている。この二次的関係が増大すると人々はアノミー状態、つまり規範が緩まり不安と孤独な状態に陥るとされる*1
 このような近代社会論は現代ではあまり妥当性を持たないと考えられるが、しかしこのような意識は移動が増大したことによる多文化多様性に溢れるグローバル社会にも蔓延っている。つまり多様性の増大は、すなわり異質性の増大であり、この異質性が増大することによって社会は不安定なものとなる。であるからして、この異質性をなんとかしなければならないという問題意識が数十年前から大きくなっている。
 近代化・都市化・グローバル化、この3つを混同して考えることは難しいが、私的にこれらには一貫して異質性と同質性という要素が重大な観点となっている。そしてこの観点は今日の政治学においてもホットである―いや、政治学においても伝統社会と近代を分別する点として議員の同質性と異質性は重要な要素であったが。
 
 グローバル化が進行した自由民主主義社会において、自国内に増大する多民族・多文化・多様性をどのように扱うかは重大な問題である。この問題に対する解決策はいくつかあるが、ここで異質性をどのように包摂するか、または排除するかが重要となってくる。
 この包摂と排除の段階になって重要な働きをするのがアイデンティティである。今日注目を集めるシティズンシップ概念においても、このシティズンシップをどこに置くか、つまり普遍的な善や地球におくのか、国民国家に置くのか等といった点において論争が展開されている。
 シティズンシップ論において重要なのが包摂である。つまりシティズンシップ―市民権は誰にどの領域にまで適用されるのかといった問題であり、国家と国民の関係に類似する。戦後、連合王国においてシティズンシップの付与によって労働者階級である異質なものを市民として包摂することが重要であるというT.H.マーシャルの論が支持され全ての市民≒国民を包摂する福祉国家が誕生することになった。
 さて、今日もんだいとなっているのが先にも述べたように多文化・多様性が増大する社会において誰から誰までを市民としみなし、市民権を付与して包摂するかが重大な問題となっている。日本的に言えば「われわれ/外人」という線引きをどこに引くかということである。また包摂するにしても、どの程度の権利を付与するのかも問題となっている。

 …論に一貫性がなくなってしまったorz

 つまり今日は、「われわれ/他者」という峻別をいかにするか。社会における異質性をどのようにコーディネートするかが重要な問題となっているのである。
 そしてこの以上のような問題に対して同質性重視か異質性重視かで分かれている。また、どこにアイデンティティを置くのかで対立が激化しているのである。これについてはまた後日









 

*1:社会学者の多くが近代化・都市化を悪とみなしているわけではないが、近代化・都市化による規範の喪失や不安の増大を問題視している論者は少なくない