インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

シンゴジラ感想 - 望んではいけない物語 -

あれは望んではいけない物語だ。

東京はもう限界を迎えている。江戸時代から何度も破壊されながら復活してきた日本の首都東京は現在限界に瀕している。東京オリンピックが決まる前からもう東京はいっぱいいっぱいになっていた。
そんな東京は壊さなければならない。壊されなければならない。そういう発想は色々な方々から上がってきている。石原元東京都知事東京オリンピックを推進したのはオリンピックの力をつかって東京を破壊し美しく再生させたかったという想いがあったのだろう。あれは分かりやすい東京を再生したい人の例だが、左右に関わらず、鉄道や首都高の混雑に地方の衰退を感じながら、そう考えている人は少なくないんじゃないか。

私もそんなことを考えていた学生だった。もう東京は限界だ、一度ぶっ壊されなければならない。東京には集まりすぎている、でも色々なものがごちゃごちゃしていてインクリメンタリズムではどーにもならないんじゃないか、ぶっ壊されなければと、若者らしい熱意と阿呆さで友達とそんなことを語っていたのを覚えている。
そんな矢先、3.11が起こった。
3.11について今更私が語ることもないだろう。そう、3.11があったのだ。
あの光景を見て私は、そんなことは望んじゃいけないんだって強く思った。これは私の体験である。

そしてシンゴジラである。
あそこには私や石原や色々な人がふと思っていたであろう東京を一度ぶっ壊して日本を再生させるんだ!ライジングサン!!という純朴なオタクの妄想がどかんとぶちまけられていた。庵野秀明という人間は本当に恐ろしい奴である。20年前にエヴァンゲリオンで多くの若者に、そして今日では多くのオジサンに。

神に限りなく近い怪物であるGodzillaが暴れ東京はメチャクチャとなり、老人が死に若いものが立ち上がり老人までも立ち上がり海外の仲間とも協力し荒ぶる神を鎮める。明日は困難が溢れているが、そこには絶望がなく未来が希望が待っている。日本はまだやれるという希望が描かれている。

そんなシンゴジラに描かれた希望へのプロセスは望んではいけない希望だ。私は断言する。
いつの時代も都市は破壊され人がたくさん死に、そこから再生がおこった。しかしである、しかし破壊を、しかも神による破壊を望んでいいものだろうか。私は断固拒否する。そんなものは望んではいけないと。それとも君は心の何処かで思っているだろうか、関東大震災か空から隕石が振ってきて東京がメチャクチャになってやり直せばいいと。ポジティにとれば、シンゴジラはそんなメッセージを我々に直球で投げつけてきた作品だったと思う。

東京を変えるのは容易ではない、映画内で描かれるようにそこには多くの思惑と利害関係と根回しと予算と理解と時間がいる。カリスマを持ったリーダーがいても日本橋の上から首都高を拭い去ることはできなかった。東京オリンピックが実現しても、それは不可能だった。だからこそ、関東大震災が、シンゴジラが必要になってくる!200万の特攻が、本土決戦が必要になってくるように!
君は私は本当にそんなことを望むのか?そんなおぞましい神が降臨することを我々は望んでしまっていいのだろうか。そんな安易な選択に身を投じて思考停止してしまっていいのだろうか?絶対にいけない。私はそう思う。

でも、そんなことを格好良く面白く映像にされてしまった!クソが!という思いと無人在来線爆弾さいこー京浜急行さいこう!ゴジラさいこー!というのが私のシンゴジラをみた大まかな感想です。