インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

NGOとテロリスト―国家を超えて戦う者たち(メモ)

NGOとテロリストやテロリズムは似ているかもしれない。
 それは彼らが国家を超えて戦う者たちである、という点においてもそうなのだが、シュミットが提唱した「現実的な敵」と「絶対的な敵」という区別においてより明確になる。
 NGOもテロリストも冷戦が崩壊しグローバル化が進行する今日の社会でその存在感がより一層増している―もちろん彼らはそれ以前から活躍し成果を挙げているが。彼らはグローバルに既存の国家や社会の境界線を超えて、彼らが「絶対的な敵」とみなす者たちと闘争を繰り広げる。そのあり方は、既存の資源や領土を巡って争う戦争とは明らかに異なる形態をとり、既存の概念や制度を機能不全にまで陥らせるだけの力がある。
 もちろん両者は必ずしも反体制というわけではない、体制を崩壊させることを目的としているとは限らない。また社会主義革命を志向しているわけでもない。しかし彼らは共に、彼らの信じる正義を実現するため悪の打倒を志す―その敵は国内にもいれば国外にもおり、固定した民族や宗教や国家を敵とするわけではない。
 このあり方はジョン・アーリの「社会を超える社会」やネグリが示した「マルチチュード」に似ている。それらは地域規模で闘いながらも「地球規模」の攻撃性をもつ。しかしまた一方で、このあり方は企業や政府を相手に戦った市民運動とも酷似しており潜勢力の一般的な形態にすぎないともいえるだろう。
 
 つまり両者の違いといえば、NGOが専ら物理的非暴力を掲げ民主的方法を採用するのに対して、テロリストが物理的暴力をその方法として採用している点にあるにすぎないのではないか。
 ともに「絶対的な敵」を見つけ、ネットワークを形成し、内なる敵にその暴力性がむけられたり、境界を超える文化的な対立も辞さない態度、こういった特徴は両者にとって不可欠なものであり、それ故に私はNGOとテロリストは類似すると思いついたのである。

ん~~~あてつけっぽい!むりがあるorz
ここからどう発展するかも見えてこないorz

追記
 ただ、一方が信じる絶対的な敵は西洋・先進国において受け入れられる可能性が高く、もう一方はイスラムによって受け入れられる可能性が高いという緊張関係にある。NGO VS テロリズム という文化対文化の対立は既に登場しているし、この問題はある地域における司法によって安定した処理を下すこともできるが、汝の正義とは何かという大きな判断を迫られる問題と今後益々なっていくだろう