インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが自分の好きな珈琲や読んだ本に食べたものについて思い出として書き残そうと思います

けいおん! 別れを受け入れ―近代を超克するモデルとしての放課後ティータイム―

 けいおん!のアニメ一期、二期と映画を見た上で私の立場を明らかにしておきたい。けいおんというオタク向けな深夜放送アニメに成熟やら内面が描かれる必要性はないと思う。そういう作品が見たければ、そういう作品をみればいいだろう。いくらだってある。そういった批判は全くクリティカルでもないし、まったくもって不毛であるだろう。しかしまあ、不毛なことをしてみよう。
  
 けいおん!」にも内面はあるんじゃないか

 「けいおん!」とは、ちょっと変わった女の子たちが自分の居場所を求めて静かな闘争を繰り広げている物語であると私は読む。異性という居場所から閉めだされてもなお、女の子たちは居場所を求めて日々戦っている。
 「けいおん!」はどうやら日常系らしい、よく知らないのだが恐らくつまり、特に大きな事件も起きなければ特別に変わった世界でもない、どこかにありえそうな世界観とその日々を描いた作品のようなことがいいたいのだろうと思う。
 さてそれでは、私的に見た限りでは「けいおん!」は第一期と二期ではその性格がだいぶ異なる。端的には、一期は成長と漠然とした不安と居場所を見つけることが描かれており、二期は居場所で内部で楽しむことがメインとして描かれているのではないか。
 成熟というのが何を指すのかよく分かっていないのだが、二期は5人の関係性が一つの一旦は完成された共同体となった後の物語であると私には感じられる。つまり二期の彼女たちは、彼女たちが一つの共同体となり、そこから外とのコミュニケーションより内なるコミュニケーションを交わしながらの自己保存が目的となっているといえる―その目的のために自己改革が静かに少しずつ進行している様が描かれているのではないか。

 実際に作品を見てみよう

 たとえば唯に死や内面がない云々と言われているらしいが、もしかしたら作品を通して彼女があまりに自由奔放であるが故にそう映ってしまったのかもしれない、もしくは作品をちゃんとみていないだけだろう。しかし一期をみれば、彼女が高校生活に胸を膨らませ、一歩踏み出し何かを始めたいと思いながらも、自由であるがゆえに青春をどう過ごしたらいいのか分からない姿や、テンポ悪くて使えないドジっ子と評される彼女がコンプレックスを抱えながらも、以前褒められたことがあった「うんたん♪」(カスタネット)を切っ掛けとして、そして3人が奏でる「翼を下さい」を聞いたことによりキラキラとした青春の光景に心を奪われ、そのキラキラへ自分を放り込む決意する姿が丁寧に描かれている―ように私にはみえる。得意なものも特徴もない冴えない少女が何かを見つけるため、ちょっと頑張ろうとする。「けいおん!」の一話目はそんな感じで始まっている。「みんなのために」安いギターを買って早く練習できるようになることを選んだ彼女は、おバカってイメージとはかけ離れており、不安を抱えていた唯が自分の輝ける居場所を見つけ、バンドの中で自分を確立していくさまが描かれている。ただ唯は音楽に出会えた幸福と、好きな事に熱中できる才能があった。
 彼女は軽音楽部にて「私にもできることが、夢中になれる大切な場所」を見つける。自信のない女の子が自分を見つける瞬間が、心配ないよって過去の自分に語りかける姿が描かれている。これは内面じゃないんだろうか。
 
 唯は確かにゆるい、しかしそれは内部の人間に見せるものであることに、没入してしまったファンは忘れてしまうのだろうか。もしかしたらそれこそが、ファンの望みからであるかもしれない。ただ彼女もコンプレックスや不安を抱えるどこにでもいる少女であることは作品をみれば明らかだ。
 一方で唯は中学の関係から卒業し高校で新たな関係を築き、バイトなどもして少しずつではあるが自立し、そしてギターが弾けるようになるまで成長している。友達・部活・勉強そして遊びと文化祭!高校生活の全てを謳歌する、まるで少年漫画や美少女ゲームと同じように―目標は武道館!とかいっちゃったりして。
おそらく一番に自由で軽いように表現されている唯が放課後ティータイムという場所を必要としているかもしれない。もちろん断言はできないが、少人数で内輪でゆる~く練習できる場所であったことは、彼女にとって大きかったかもしれない。唯は歩みはカメのようにノロイが、軽音部で成長した大きくなった、ましになった。将来に悩む、やりたいことがない彼女は、小さいながらも目標と場所を見つけ実現させている。
 もう一方の主人公あずにゃんはどうだろう、私は彼女こそが放課後ティータイムで一番重要な存在であり、それは5人の関係を不安定にさせる重要な装置であるからだ―それは新学年が来るたびに「けいおん!」の関係を揺るがすからである。中野梓が4人の中に入ることによって、彼女たちの関係性は一度かるく壊され新しく生まれ変わり放課後ティータイムとなった。この模様は、一期の前後を見返せば分かってもらえると思う。同じ様なことを繰り返しているように見えて、あずにゃんが加入したことによって変わっていった彼女たちが、放課後ティータイムを結成しその中で戯れているのだ。 

 けいおん!における別れ

彼女たちは終わりがあることを見えていないのだろうか、この作品はそれを隠しているだろうか。いや、そんなことはない。二期の一話目で来年は卒業しあずにゃんが一人残されることを憂いているメンバーの姿が描かれているではないか。また、あずにゃんはあずにゃんで来年には終わったしまうことを受け入れつつも、今はこの5人でいることを肯定する。この時点では、彼女たちは終りが来ることを隠しているのではなく、終りが来ることを了解しながらも今を肯定している姿が輝かしく描かれているのではないだろうか。二期は、主に内部に焦点が当てられている。あまり関わりあいの描かれなかった、紬とメンバーとの絡みも増えていた。
 一期の8話では2年生のクラス替えで澪だけが一人になってしまう姿もみられるし、第二期でも別れは事ある毎に描かれている。そして後輩が誕生したことにより不安定感がましたり、喧嘩があったり、ずっと一緒じゃない未来もまた描かれている。。
 演出上、エモい感じを出すためかもしれないが卒業や別れ過去(思い出も)、終わってしまうこと、そして自分たちに似ている人の未来の姿―さわちゃんと高校の頃バンドメンバーとの関係―が二期には散りばめられている。例えば10話では、サワちゃんのバンドが生きていることが示されている。
 また彼女たちが別れず、同じ大学に進学したのは12話で語られている―これからもずっとみんなでバンドできたらいいね、という夢を叶えていくためと捉えられるのではないか。彼女たちは死≒別れを直視し、その上で夢と現実を見据えたのではないか。彼女たちが進学しても別れないのは、モラトリアムを延長するヌルさ故ではない、より成長へと向かう夢を実現させるためのポジティブなものではないかと私にはみえる。そして彼女たちは現実に、目の前の目標を実現させている。

 またもう一人の主人公である、あずにゃんが別れが来ることを意識しているのは明らかだ、そしてその上で同級生の2人より先に行ってしまう先輩たちを選んでいる。二期の13話における比較はかなり露骨だ。そして花火を背景とした4人の姿を見て彼女は「また私夢見ているのかな」と追いかけ、そのあと4人とあずにゃんがはぐれてしまい同級生の二人と合流する描写は、先輩との日々の終わりを・残されてしまうことを示唆しているのだろう。しかしはぐれてしまっても彼女は「大丈夫だよ、きっと」と答える。一人になってしまう不安を漠然と抱えながら…この話では先に行ってしまう4人と残される1人の対比が描かれているではないだろうか。5人の関係性に今までと違った距離感が生じているのが描かれているではないか。
 Y & Iには、いなくなって初めて大切なものの有難さが分かる旨が綴られている。3回目の文化祭ライブが終わると、次はないこと、軽音楽部の生活が失われてしまうことに、みな涙している。そして、その別れを乗り越えるために一緒の大学に行くという決意が21話ではなされた―推薦をやめて―別れが4人の方向性を結束させた、同時にバンドから外に出ても一緒という意識が強くなる。

 死≒別れ、という具合に解してもよいのならば、けいおん!には至る所に死が描かれている。それが視聴者を感動させるため機能しているではないか。2期の最終回付近や映画のラストには別れと始まりが、飛び立つ者と残される者の明確な線引きがなされている。 
 

 共同体としての放課後ティータイムと「けいおん!

 ここからは独自の視点と現代思想を絡めてなんかちょっと小難しく権威付けて当てつけっぽく、けいおん!を読み取ってみよう。アニメ版けいおん!は5人が共同体(コムニタス)として近代のアポリアを超克していくストーリなのではないか。細かいことは抜きにしても、第一期の前半は―後半も通して―軽音楽部が放課後ティータイムというバンドとしての姿を形成していく、ふわふわポジティブなストーリーである。あずにゃんが加入することになってから放課後ティータイムとなる流れは5人で一つのバンドであることを示唆しているだろう、それは作品内でも名言されている。このバンドは、あずにゃんが一年かけて去年4人が経験したことを一緒に追体験することによって確固とした共同体となる。そして第二期は、ある程度の同一性を獲得した5人による透明なコミュニケーションが延々と流される―というような解釈をよく見るが、実はそうではないと私は批判する。
 放課後ティータイムは、そのメンバーである中野梓、あずにゃんという存在を鍵とする。彼女は放課後ティータイムという共同体における同質なアイデンティティを共有する構成員でありながらも、同時に敵であり客であり他者に変身できる。それは下級生という立場によって否応無しに変身させられる・意識させられるのだが、彼女を取り組んだことにより、放課後ティータイムは伝統的な共同体観を飛び越え、現代に要請されるような共同体へと成っていく。エスポジトによれば伝統的に共同体とは自己同一性に―同じであることに―基礎を求める。こうした共同体は自由主義であっても共同体主義であっても、どちらも自己の所有権に閉ざされた個を志向しまうことになると言う。こうした共同体観はグローバル化し移民と他者との距離が近くなった今日多くの問題を孕んでしまう。
 共同体は類似性・同一性といった観点から捉えられるのが伝統的である。しかし「けいおん!」で描かれている共同体のあり方は、その伝統的な共同体を超克する可能性を秘めた可能態とみなせるかもしれない。
 話を戻そう、一見すると「けいおん!」は集団のカラの中に閉じこもった物語とみなされるかもしれない。たしかにそういった性格が―均質なアイデンティティが―あるのは間違いないし、作中でも5人の結びつきが強く外から入りにくいことは言及されている、しかしそれだけにとどまらない。あずにゃんが加入したことにより、バンドは同一性のみならず免疫機能を発動することになる。あずにゃんは外からやってきた、そして部活のあり方に疑問を投げかけ部のアイデンティティを揺さぶり、卒業を機に別れる高い可能性を有する存在である。あずにゃんは、放課後ティータイムの自己でありながら、その外部に飛び出せる存在であり、彼女がいることによって否応なしに放課後ティータイムは(別れという)外部との接触や伝染に晒される。彼女を取り込んだことによって放課後ティータイムは共同体として確固とした存在になったのではないだろうか。そして彼女を受け入れたことによって放課後ティータイムは過度な自己免疫化を逃れ、内向的で攻撃的でないふわふわだけどしっかりと結びついた最高のバンドになっていったのではないだろうか。
 この共同体のあり方は今日大変興味深いものである。内部において多様でありながらもある程度均質なアイデンティティを共有し、集団の救いを他者の破壊へと向ける必要のないことは、他者の死を必要とせず生を追い求め続けることができる、*1つまり近代を超克しているのである――という以上のことは当てつけである。
 ビオス(集団に固有の生の形式)はあずにゃんを抜いた4人のなかで既にだいぶ確立されていた。しかし、あずにゃんを孕むことによって、対立する免疫システムの緊張関係を維持しつつも、それが新たな生の出生となっている。あずにゃんが放課後ティータイムを完成させ、同時にあずにゃんが放課後ティータイムを開放し危険にさらす。そうした不安定さが許容されることによって、放課後ティータイムはより確かなものへと安定していく。
 危機や他者は、死と隣り合わせの死へと向かう戦いではなく、生へと向かう戦いを志向する。つまり異分子と接触することによって、胎内に取り込むことによって開かれた共同体のモデルとして放課後ティータイムをみなせるのではないか。彼女たちのゆるさ、確固とした自己がない曖昧な感じ、しかしそれゆえにアイデンティティを共有しながらも、確固とした均質なアイデンティティに固執することもないのである。
 私は放課後ティータイムとあずにゃんは「互いに、相手なくしては存在し得ない内在的な対立物」なのではないかと読む。始まりとは自らの内に反対物(≒死)を孕むことである。つまり機能的に特異なあずにゃんを迎え入れることによって、放課後ティータイムは始まったといえるだろう。
 一時の別れ、それは確かに低い跳び箱かもしれないが、彼女たちはそれを飛び越えていく―世界を変えてしまうような大きな問題に出会わず、無理に高い壁を設定せず。彼女たちの足取りは危なげないが、でもしっかりと飛び立つ。あずにゃんがくれた翼を広げて。そして、あずにゃんに翼を授けて。



 ただ、このような共同体は架空の世界でしか描けないのではないかという不安もよぎる。けいおん!の世界には親が登場しない、男も大人もほとんど登場しない。それは役割としての親や大人を必要とするほどの問題が生じないからではないか。あの共同体は所詮架空の世界でしか…とネガティブに捉えられることもできるだろう。しかし、可能態はそれでいいのであると私は思う。あの共同体を実現するのは大変に困難で不可能に近いかもしれない、しかし、ああいった共同体が描かれることによって、我々はその現実態を想像することができるかもしれない。
 また同時に卒業という別れの強制的装置によって適切なモラトリアムを経験するよう助けられていると解することも可能だろう。内部で固まりすぎず淀んで腐ってしまわないようにする機能を卒業は有しており、放課後ティータイムに固執するあずにゃんに別れを受け入れさせ、彼女とバンドの成長を促しているようにも、学校という制度を肯定しているようにも思える。

 また、たとえ大きな問題のない会話だけのアニメであったとしても、それにもかかわらず我々をあれほど魅了した「けいおん!」はふわふわにすてきな作品であることに間違いはないだろう。





よだん!

 余談だが、この共同体は環境の変化に対して内部の配置を変化させることによって対応するシステムのようには見えない。どちらかといえば、この共同体はどこにいっても、いつもの自分たちを貫ける強さがある。しかし同時に確固たるアイデンティティは、ふわふわなところにあるので敵対的ではない。放課後ティータイムは均質なアイデンティティを共有しつつも他者と別れを内部に取り組むことによって、共同体として成熟し確かな外殻を手に入れた。つまり自己免疫機能が常に少量の危機に晒されることによって、自壊してしまう危険性を調整しているのである。その少量の危機を常に提供してくれるのが、内部のあずにゃんなのである。あずにゃんという後輩を排除しなかったことによって、放課後ティータイムはバラバラになることなく、環境変化にも強い共同体なり得たのではないだろうか。
 ただ同時に彼女たちの自己愛も強い。あずにゃんへの歌を、喜んでもらえるかをとても気にかけている―ロンドンで大して緊張せず演奏してしまうメンバーがである。彼女たちにとって一番大切なのは内部であることの表れであろう。それ故に、この共同体の中に入れば、澪がメンヘラになることは無いと思える。

 また余談だが、やはり作品はしっかり見るべきだろうなと思った。今回の批評では後半よりも前半のほうが書くのが大変だった、全話をいちいちチャックしながら何度か見返すのは骨が折れる。逆に後半は、それっぽい現代思想を作品の何かにむりやりねじ込んでしまえば骨格は出来上がってしまった。楽ちんだ―ぶっちゃけ当てつけ以外の何物でもない。放課後ティータイムが近代を超克できるモデルだなんて語ることは入門書を片手にできる。
 批評というものが何であるのか私はあまり興味が無い。しかしやはり作品に誠実であるべきじゃないかと思う。ある政治的・学術的な考えを、予めある考えを主張するために、作品を歪めてみるのはどうなのだろうか。キャッチーな作品であれば読まれやすいのは理解を示せる。しかし社会的なことをいいたいのなら社会批評をすればいいのだし、構造などを明らかとしたいなら、巷に溢れる煩雑な作品や面白くもない沢山の作品と格闘する必要こそあるのではないだろうか。
 もちろんたしかにオリジナルなきシミュラークルといった円環・螺旋のなかからコピーコピーコピーを繰り返し、そのなかから要素を取り出しなにか新しいものを紡ぎ出すという作業は創造的であると思うが。


追記

「アニオタ保守本流けいおん!全員女子大進学問題をdisってみた」http://togetter.com/li/51774
けいおん!という病。”全員女子大進学問題”を考える。」http://d.hatena.ne.jp/aniotahosyu/20100921
こういう態度の人たちを私は批判したかったんですかね。ちょっと違う気もするけどメモとして

*1:ただ自己愛は激しい感じもする