インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

働いてみて―ビジネスパーソンになって日常を生きる私と

 kentz1君のブログを読んだことを切欠にして私も自分の労働に対するあれこれを振り返ってみようと思った。私は働き始めて5年と数ヶ月が経ったんだな。

 私のような平凡な人間にも色々な人生の出来事があり、もうなんでもいいからお金を手に入れないと選り好みできる余裕はもう私にはないんだ、なんでもいいからブラック企業でもいいと本当に藁をも掴む思いでハロワでまともそうな会社に応募しまくって運良く引っかかり曇り空ながら正社員になったのが、私の労働者としての始まり。

 労働や労働者に対する苦手意識があり、自分は労働は出来ないだろう企業に務めるなんて無理だろうと思っていたが、なってみると意外と働けている自分がいた。
 この意外と働く労働者になれている事実には当初はすごく違和感を覚えた。働いて社会人になっている自分に対してとても違和感があったけど、別人の自分として労働者の自分をみていれば、そこで別の私として分けて考えればどうしようもない違和感を覚えつつも、いつの間にか自他共に認めるビジネスパーソンになっていた。自分が壊れたり分裂することなく。
 Twitterでもビジネスパーソンとして振る舞いだし、人からは典型的な東京の休日を満喫する外資系企業に務める独身貴族っぽいと言われたりするようになった。そういう風に振る舞わないと自分を保てなかったのはあったと思う、いまでも。
 カフェのバリスタバリスタのイメージになろうとしてバリスタらしく振る舞うように、私はビジネスパーソンという自分に違和感を抱きながら、働くために自己イメージを切り離し、あらたな私を産むためビジネスパーソンっぽくなろうとしてビジネスパーソンっぽく見られるためビジネスパーソンのように振る舞っている節がある。
 そういったことに違和感を、サイズの合わない服を着ているときの着心地の悪さを感じつつも、労働という場には居心地の悪さを感じつつも、ビジネスパーソンとして振る舞える自分になっていた。

 私はビジネスパーソンで余暇を人生を楽しんでいるんだよ!って他人として自分に見せつけることはとても大切な儀式だ。
ホラ、お前の人生は間違っていない、今お前は欲しかった生活を手に入れられている。寿司も珈琲豆も茶葉も服もティーカップも思うがままだ。もっともっと年収を上げて欲しかった自分の家も手に入るぞって。

 労働は徹頭徹尾一から十までお金というメディアを手に入れるための手段で、それ以外のなにものでもなくって、お金があれば今の時代の東京だと大体欲しいものことは高いレベルで満足感を得られるくらいは手に入れられる。私はただお金のためだけに働くしそれ以外に労働に何かを求めないし求めたくもない。
 働く意味は生きていくための、チープだけどこのクソッタレで退屈なくせに意外と平坦でもなかった人生を生き抜き幸せを感じるための手段としての金をてにいれることだと割り切れているのだと我ながら思う。生きていくにはお金がいる。お金のない無職は辛い自由がない世間の目が冷たい父は痩せこけ母が泣く。どんなに綺麗事や御高説垂れてもお金がいる。お金がいるんだ。お金じゃなくても土地とか生産手段がいる。生きていくには意味とか目的の前に、どーしたって手段が必要で、それが現代では労働することお金を手に入れることなんだ。労働は手段だし、お金も手段だ。労働にそれ以上の意味はないし、お金も労働も目的じゃない。
 お金を得るための手段としてビジネスパーソンになりきるのは、私としてはそこまで嫌じゃなく納得出来ているのだと思う。(御高説垂れてお金がもらえる人達はいいなーと思う。俺もあれになりたかった)

でも今の私はあんなに大好きだった哲学や社会学の本を読めない。
母に、働き始め東京に暮らし始め海外旅行に行ったり登山したりする私を見て、「お前の本当の人生が始まったんだね」と涙ながらに喜ばれながら言われたのを今でも忘れられない。