インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

想像上の最終回を妄想の上で観てしまったので観に行く前に心情を吐露するオジサン

8日から公開された映画は観てないのだが、恐らく近いうちに観ることになると思っていて、
その前に、なんの情報も雰囲気もわからない今のうちに―幸いTwitterや諸々を見ないようにしウマ娘にハマることによってネタバレや話題から距離を置くことができている。
ウマ娘には本当に感謝している。キミがいてくれるから今私は平和にうまぴょい出来ている。ウマ娘ありがとう。
―よくわからない思いだけを吐露しておこうと思います。

ネタにしている奴、自分語りをしている奴らはみんな死んでしまえばいいのにと思いつつ
ここで何も語らず静かに観て静かにしているのがいいのだろうけど
自分自身に対する記録として、そしてただネタとして140文字で消費してしまわないように自分語りをする。
そう、あの頃はTwitterも手元にインターネットもなかった。そんなとき私はノートに感想や思いを書き綴って
ゲルゲットショッキングセンターを聞いて友人と語り合ったものだった。いま誰かと語り合いたいとは思わないけど
色々あってなし崩し的に新劇場版を観てしまった自分としては、何もいわないのは自分に対して誠実ではないんだ。
あの頃、なんの恥ずかしげもなく感想をノートに中学校の黒板に書きなぐった自分を今すぐに抱きしめてあげたい裏切りたくない。

現時点での新劇場版に対する感想といえば、端的に言えば観なくてもよかったかな、観ないほうがウンコ我慢できてよかったかなというものだ。
本当によく出来た娯楽作品だったけど、よく出来たアニメ映画というだけで、それ以外は特に心をかき乱すものも感動も、なにかあの頃のなにかに近いものが得られる作品ではなかった。
涙も笑顔も怒りも悲しみも感動もなかった。おおむね楽しい娯楽だったなというのが主な感想だ。もちろん色々な思いがなかったわけではないけれど
時間を置きすぎてしまったのか歳を重ねすぎてしまったのか距離を置きすぎたのか。
ただ一点よかったところは式波・アスカ・ラングレーちゃんと私の中で和解できた、あの子のことを受け入れることが出来た、素直にかわいいなって
彼女のフィギュアを買うほどには優しくなれたことだけは本当に心からよかった。ありがとう。いままで長い間、誤解していて本当に申し訳ない。
君は惣流・アスカ・ラングレーではなく、式波・アスカ・ラングレーだったんだね。やっぱりアスカはかわいいなー。アスカちゃんはカワイイ、だからお願いだから碇シンジなんか蹴っ飛ばしてバリキャリシングルマザーみたく気高く美しく生きて欲しい。おねがいだ。

ネタバレを、映画を観る前に、想像上の最終作を観た想定の上で語るしか今はないのだけど
きっとアスカはシンジの尻を蹴り飛ばして最後終わることになるだろう。監督はそれを望んでいるだろうし、私もそれを望んでいる。そうでなければもうしらない。
綾波レイと結ばれるのか、ここは難しいところだけど新劇場版のシンジ君ならば意外と屈託なく母と父に似ている女の子を選んで落ち着くんじゃないかと思う。
綾波レイは母のユイの見た目と、よくわからない父ゲンドウをちょうど足して割ったような兄妹のような存在なので
絶対的な他者であるアスカを求め拒絶し受け入れてもらおうと思い気持ち悪いと拒絶してもらうという最高の経験は既に描かれているので、
この最終回は近いどこか親近感のある存在に落ち着くという、なんともいえない匂いのする漬物的な、そんな私としては煮え切らない物語をみせられるんだろうかなと
諦め空虚に近い妄想を先程していた。もしくは他の誰か女性とくっついて子供を設けてしまうとか、その子供のためにまたエヴァに乗るとか、そんな恐ろしい妄想が溢れてくるたすけてくれ。

富野監督がZZガンダムベルトーチカ・チルドレン、Vガンダムで描いてきたような人間ドラマ、男女の関係といったものを庵野監督は描けないだろうし
我々もそれを求めるべきではなかったんだろうなと思う。少なくとも私は心のどこかでそんな何かを無意識の内に自然と彼の作品に対して求めていることがあった。
それに気づいた時は絶句したし、それは間違いだったんだろうなと思う。庵野監督頼むから富野監督を追わないでくれ宮崎駿を追わないでくれ。

私としては、既にAir/まごころを君にで完結したと思った作品だし物語としても、そして恐らくシンジ君の物語としても終わったと思っている。
じゃあ今劇場で公開されている作品はなんの最終回なのかというと、これはもう本当に妄想に過ぎない自分語りだから外れていたら本当に気持ち悪いんだけど
恐らく碇ゲンドウの物語の最終回が描かれている。それを俺たちはなぜか観せられるんじゃないかと吐き気と気持ち悪さに震えている。ここが私がいいたかったことです。怖いんです。でも、こんな妄想しか思い浮かばない、ゲンドウの最後を描く引導を渡すとしたら、もうその役目はシンジ君しかない。まだシンジ君にそんな重荷を背負わせるのかやめてくれ。だから観に行きたくないんだ!でも妻が一緒に観に行こうよというので絶対に行くことになるので、その前に吐露します。

TVの最終回やまごころを君にを観ると、シンジ君やアスカ、綾波にゼーレの皆様も物語をちゃんと終えられたのかなと思う一方で
ゲンドウだけは、父さんだけは思いを遂げられず道半ばで終わることになった人物の一人だと思っていて、もし最終回をもう一度やるのなら彼の物語を描くしかないんじゃないと思う。
Qを観て思ったのは、もうあそこは、元々そうだったんだけどシンジ君の物語ではなく、はじめっから碇ゲンドウの物語で息子であるシンジくんはその父の世界系作品に
無理やり巻き込まれた主人公であった。そんな中で彼がどう生きるのか選択するのかが物語の中核ではなるんだけど
Qで改めて、そのやり直しを観せられてしまって、正直なところどーなんだろうと思ったファンは少なくないと私は妄想していた。どーなんでしょうみなさま。ひどかったですね。
で、それでまた同じことを最終回でやっても仕方がないというか、そんなことは出来ないと苦しんだと思う。そりゃそーだ、どうしてQで終わりにしなかったんだ。もっと言えば、どうしてQみたいな駄作を作ってしまったあとに、それで終わりにするか全部ちゃぶ台をひっくり返していてくれたのむ。
アスカちゃんかわいい、やっぱりアスカちゃんはなんだかんだ文句をいいながら手を差し伸べて引っ張っていってくれる僕らのアスカちゃんで終わりにしたらよかったんだ。バカ。

もうどうして、こんな気持ちが悪いんだよ。気持ちの悪い妄想が流れてくるんだと叫んでいるんだけど、よくわからない妄想が溢れてくるのを妻にウマ娘に泣きつきながら続けると
碇ゲンドウを救ってやる。この作品の世界である人類補完計画を利用して世界を滅茶苦茶にしてでも息子を捨て道具にしてでも愛する者を取り戻そうと悪魔になった碇ゲンドウを救ってあげる話しかないんじゃないかと思っている。ゲンドウはまごころを君にで引導を渡されたので、彼の思い描いたように人類補完計画を完遂させるか、世界の中心で愛を叫んだけものになりそびれたオジサンに対して、もうそれを何らかの形で終わらせる物語、これを最終回です。いままで長い間応援していただきありがとうございました。こんな最後になってしまい大変申し訳ございませんが、これにて終劇となります。とするしかないんじゃないかと、本当に心から吐きそうになっている。

シンジ君の物語も、アスカの物語も、綾波レイの物語も、チルドレンの物語はもう既に完結している。そこは事実だと思っている。
少年少女たちの物語はなんとか描けた。だったら、じゃー何を描くのか。Qの続きの上で描かれる最終回としては碇ゲンドウに思いを遂げさせるか、
その物語に巻き込まれたその他の人々の最後を、それこそ日本のいちばん長い日のように人類補完計画の最後を、それぞれの登場人物にとっての最後の日を描き切るしか方法はないんじゃないかと、自分に申し訳が立たないんじゃないかと妄想している。

シンジ君は自分を出せないただ周りや大人の顔をうかがって何も自分では決められない自分を出せない少年だったけれど、
最後他人という存在を認めて拒絶して、でもそんな自分を受け入れて欲しいと願い自分を他人にさらけ出すことができた。その思いはきもちわるいと拒絶される形に終わったけれど、
だけど彼を思いをぶつけて拒絶されるというかけがえのない経験ができた。対等なアスカという存在とちゃんと向き合えた。結局シンジ君の前に親はあらわれなかったのかなーと思いつつ他人と向き合ったんだなと。
アスカは自分の母の愛を知り和解できたし、綾波レイは父であるゲンドウを拒絶し自分が思う男の元へ行き父離れすることが出来た。もう十分に少年少女たちの物語としては終わっているんだ。
あと残されているとしたら強くなったシンジ君がゲンドウと決別する物語という本当に吐き気をもよおす展開くらいだ。それくらいなんだよ。でも、もうそんなの描かなくったっていいだろ。でも、もうこんだけ長いことやって最終回とするなら、そこを描いてしまうんじゃないかという本当にひどい妄想をしてしまっている。
もしくは、かつて子供だった者たちが大人になってしまった姿を描かないで欲しい。そういうのはやめてくれ。そういうのはQで示唆されてるけど、トウジとかケンスケとか委員長とか出さないでくれ。彼らがサード・インパクトもどき?のあとにも人生があって生きていてとか、それでシンジ君はまた悩むとかまた立ち上がるとか戦うとか、トップをねらえの5話みたいなのはもういいのでそんなのは観せないで欲しい。お願いだから。

新劇場版のシンジ君にはロボットも血塗れで転がってくる美少女も空から降ってくるよくわからないメガネも必要なくて、もう自分で決めて悩んで失敗できる何も心配ない自立した人間になっていた。なんでこんなものを改めて観せられるんだと序と破をみて思った。リメイクなら、それでもよかったんだ。
でもQは明らかに雰囲気が違った。大人が理不尽でシンジ君が可哀想だという感想がQの放送されている時に流れていたが、そんなことは以前からそうだった。
じゃーなんで、そういった感想を皆が抱いたのか。
あそこにはシンジ君もアスカも綾波レイもいなかった。カヲル君はシンジ君とイチャイチャできて楽しそうだったけど、あそこに少年少女はいなかった。もしくはシンジ君だけが少年少女だった。あとに描かれていたのは疲れた大人たちか、もしくはキャッキャしているオバちゃん達で、アスカはオバちゃんになってた。言い方が悪いなら言い直すと、シンジ君と対等な存在じゃなくなってたんだよクソが。よく分からないメガネと同じ立ち位置にいたんだよ。なんだあれってなるよね。年上のお姉ちゃんになってんじゃん。そーじゃねーだろ、あんたバカぁってなっただろ。

シンジ君と対等な存在であった近いけど絶対に交わらない他人としてのアスカがちゃんといたんだよ。でもQには、もう誰もシンジ君と対等な存在はいなくなっていた。もうこれで何を描くのか?作品の中で唯一保たれていたシンジとアスカとの対等な関係という線を竜骨を切ってしまって物語は保たない。もう中心をなくしたどくに崩れるのか分からないひどい物語になっていた。もうどうしようもなく、物語を取り繕うこともできなくなっていた。
少なくとも私はQを観た感想としてはそうで、シンジ君のいない、他人のいない、くたびれた大人たちだけの物語は、崩壊後の世界の話は残念ながらQで終わっていない。終わってない、じゃあ続きを書くしかない最終回にしようとなっていたとしたら、そこが心底嫌なところなんだ。序と破はリメイクだなー、よく出来たリメイクだ、エンタメ作品になったもんだなーパチンコになってるしなーあははーで、まー百歩譲ってよくないけれどよいとできたとしても。Qはあまりにもひどい言葉通りの意味で新作としてひどい物語だったじゃないですか。
だから、あー本当にどうしてこんな妄想になったのかわからないけど、でも最終回として描くとしたら、Qの続きを書いてしまうとしたら、もう残っているのは報われない悔いを残した大人たちの鎮魂歌しかないと思う。そこを終わらせてあげる。供養してあげる。せめてゲンドウによって人類補完計画が達成されたほうがいい。でも、まーそうはならないでしょう。
じゃー何が待っているのか、もう言葉にするのもいやなんだけど崩壊したあとの世界を生きるみたいなガンダムシリーズで富野監督が、未来少年コナンで宮崎監督が以前やったことの酷い劣化コピーみたいなものが待っているんじゃないかと妄想してしまうと、陰鬱とした気持ちになる。でも、私の酷い妄想力では、どう考えてもそうなってしまう。Qという酷い作品から生まれるとしたら、もうそんなものしか残っていないんじゃないか。

それをわざわざ観せられるのかと思うと、本当に観たくないし、これが妄想でよかったと思えるために、
いやー妻に引っ張られて仕方なく観に行くんっすよーあははーとかいう人を盾にしたクソみたいな態度ではなく、
ちゃんと自分の中の気持ちの悪い思いや妄想を気持ち悪いって決別するためにも観にいけるんじゃないかと思う。