インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

暇で退屈で疲れたオジサンーなぜ私は働いていて、こんなにも働きたくないのかについて2

ハイデガーの退屈についてざっくりとした私の理解では、退屈とは意味がない・価値がない・目的がない状態のことだ。
となれば、いま私は退屈である。この私的思索の結論を先に述べるなら、何もすることがなくて不快というよりも、何かしたくても疲れていて、私にとって意味あることがなにもできていない感覚があって不快である。だから、こんなにも働きたくないと感じている。

前回のブログで、私はどうしてこんなにも働きたくないのかについて、自分なりの一定の状態に対する理解を得たのだが、その一方で根本的な理由には辿り着けていなかった。そこは自分に対してもはぐらかしていた*1
そこでもうちょっと私は考えた。働きたくないというのはなぜかについて。
そしてシンプルな答えが転がり落ちてきた。それはひとえに、働く理由が見いだせないからだ。
今の仕事のお給料と業務と義務に見合うほどの意味を労働に見いだせない。正直言って今の業務内容に環境が酷くないーどちらかといえば恵まれてるーにもかかわらず、この労働によって引き起こされる疲労や苦労に対して憤りがあり、そのために働きたくないと今までよりも強く感じていると思われる。
つまり、働いているにも関わらず、いま生きている意味と目的を見失っているために、生きるため働くことに価値を見出せない。
ただ安定した生活を回復した状態だということだ。人生に覇気がなくなってしまっている。

ただ、もちろんこれは、以前の無職の頃の、若いころの、リストラにあったころの私に聞かせたら腸が煮えくり返るほど幸福で自由な状態ともいえる。充実したキャリアアップできる仕事があり、生活は安定していてお金に不安がある状態ではなく、なにかを出来る自由な状態だ。安定していて、その土台の上に自由を築ける状態。にもかかわらず、安定するために疲弊していて、自由を築ける余地があるので自由なことができず自由を浪費している状態。それが今の私だ。だからこそ余計に労働による疲労からくる不自由・気力の低下が心から憎く、労働をしたくない。
なぜこんなにも仕事がしたくないのかについて、より明確になった。

つまり、私は私のしたいことをしたいにも関わらず、労働の疲れからか、私は私のしたいことができず、せっかく手に入れたお金や自由を私が満足する形で使うことができず、ただただ自由を浪費している気がして、それが悔しくて理不尽に思え泣き出してしまいたくなって、だから私は私を疲れさせる労働をしたくない。という次第だろう。

ということは、冒頭で私は退屈だと書いたが、それは正確には正しくなく、私は退屈な状態を労働によってなかば強制されている。とも考えられる。
また人を労働によって疲れさせれば人は意義のあることよりも、水は海に向かってながれるように、手短な娯楽に時と金を費やしてしまう。本当になんにもしない暇で退屈な時間は出来る限りさけたいし、手元にお金があるなら折角手に入れた意味を得たいがため使いたくなる。つまり現代消費社会では、安易な消費を消費者に促すために適度に疲れさせ、消費させるようにシステム的に設計され、人は自由意志と勘違いして働かされたその金を安易に費やしてしまうのだ。これで経済は回っていく。スマホは便利であるが人を即座の手軽な消費に誘うための凶悪なツールだ。スマホとインターネットは本当に即座に人を消費行動へと誘導できる、まさにそのための消費社会の権現みたいなツールだ。みたいな現代消費社会批判みたいなことは、まーどうでもいい。
どうでもいいのか。そうでもない。これで消費社会的な価値に自分が価値を見出せるのなら、ブランド物やトロフィー的なインスタ的な消費に意味を見出せるのなら、まだ労働する意味も見いだせるだろうが、それもある程度やってしまって、そこまでもう消費に価値を見出せないでいる。別のことに価値を見出したがっている。だから今が苦しいのは分かるのだけど。

ここで前回の思索から気づいたことを合わせると、なぜこんなにも働きたくないのかについて以下のような結論に至った

  1. 労働によって疲労し、それによって私の人生の時間を有意義に使うことができないため
  2. 労働によって生活は安定したが、その安定によって得られた自由は制限された自由であり、私が試してみたい自由を行使するには少なすぎる自由のため、納得できる程の自由を行使できないため
  3. もし私が求める自由を行使した場合、さらに疲弊してしまい生活も労働も私的活動も破綻することが目に見えているため、理性的に合理的に考えてしまうと、なにかをすることが億劫に気力がわいてこなくなってしまうため

このような形でまとめるとより明確になった。つまり「疲労・疲弊」がキーワードになる。仕事による疲れから人生の意味を謳歌できなくなっているという意識があるため、人生に対して退屈と感じ、それ故に私は働きたくなくなっていると考えられる。
疲労というと面白いのはシモーヌ・ヴェイユだろうか。彼女は自ら工場労働に従事することによって疲労について大変共感できる言葉を残している

「肉体労働の大いなる苦悩。もっぱら実存するためにだけ、かくも長時間にわたって努力を強いられる。奴隷とは、疲労困憊の代価としていかなる善も目的とはならず、たんなる実存しか与えられない、そういった人間のことだ。」『重力と恩寵岩波書店、P305

仕事と労働の差別化は奴隷が自らの境涯を慰めるための区別でしかないと思っているのだが、やはり労働と仕事に対する知識と、そして新たに気づいた「疲労」という観点から、私はなぜ働いていて、こんなにも働きたくないのかについて、考察を進めていきたいと思う。ここになにか面白そうな発見があるかもしれない。

*1:実際、珈琲豆の焙煎も、その作業自体はやはり面倒に感じる時がある、特に暑かったり疲れていたりすれば!

なぜ私は働いていて、こんなにも働きたくないのかについて―非強制的労働についてのメモ

あまりにも最近、ここ2ヶ月くらい働きたくなくて叫びだし泣きだしそうなので、なんでこんなにも働きたくないのか内省してみる。

私は他人から強制されるのが大嫌いだ。
また何か大きいものへの従属によって人生の意味や価値を授けられる・得られる陶酔することを侮蔑している。生きる意味を自分以外の何かに仮託することは危険だと経験から信じている。
しかしその一方で、私はなかば強制的に労働に従事している。もう10年以上働いてしまった。自分の意思としては出来る限り働きたくない。仕事だろうが労働だろうがしたくないのだが、労働という罪に仕事という悪に手を染めてしまっている。金の欲しさに*1。金と自由が欲しいという欲望は二律背反する概念なのだろうか。
なぜお金が欲しいのだろうか。なぜ金のために労働に身をやつしてしまっているのだろうか。私はお金のため以外には労働に意味も価値も意義も見いだせない。ただ金のためだけに労働をしているし仕事を選んでいる。無職だった当時に、初めて入った会社が微妙だったと危機感を覚えた際に、いかに効率的に出来る限り楽で福利厚生が熱くて沢山お金を得られないものか、という点だけに絞って仕事を選んで今の労働に従事している。このようにゴールを明確にしたためか年収は目標以上の想像していなかったとこまで来てしまったし、恐らくこのまま従事し役割を果たしていけば増えていくだろうという実感もある。また労働環境や社内の人間関係も不満はないわけではないが比較的良好な状態だと認めざるを得ない。
そんな状況にも関わらず、働きたくない。出来る限り働きたくない。なぜだろう、それが最近分からないので自分の考えについてまとめてみたい。
他人からしたら運よく恵まれた労働環境にあるのだろうが、あまりにも働きたくなくて恵まれているとは思えない。私は他人と自分を比較するのが以前の私と比べて苦手になってしまったんだなと思うー自我が肥大化しすぎたのか自分を守るための成れの果ての姿なのかは今はもう確かではない。いや、そうではない労働者としてすべての労働者は労働の刑に処された者であり、奴隷として資本主義の狗として首輪の豪華さと大きさを競う気持ちにはなれない。そう他者との比較では、私の働きたくなさについて説明できそうにない。

そもそも、なぜ働き始めたのかについて
 学生の頃にアルバイトを始めた理由は自由に使えるお金が欲しかったからだ。デート代カラオケ・ホテル代洋服代、つまり遊ぶ金が欲しかったからだ。労働をしたくて社会経験とかそういった類の理由からではなかったのは間違いないと自信をもって言葉にできる。
 なぜ就職したのか。色々とある。アカデミックな場所に居続けることに限界を感じて―今思えば覚悟が足りなかった―諦め挫折し卒業した。そうなれば一人食べていく必要があるので、生きていく必要性に駆られて就職した。この時はほかに選択肢がないというか、色々な選択肢を考えたけれど、狩猟採集時代の人間が肉や木の実を狩りに行かなければ死んでしまうように、生きていくのなら生活の糧を得る必要があるので、なんとか就職して金を得るため働きだした。
 だからアルバイトであっても就職した労働者としてであっても、働き始めたことは諦念と仕方のなさが大半を占めるけど強制的かといわれると、生存のためでもあり社会的な強制力・プレッシャーも相当にあるが―自発的と思わされつつも自発的に仕方がなく就職して納得して仕事に就いた。仕事に就いたばかりの頃は院卒無職の私からようやく一般的なレールに乗れたことに涙したことを覚えている。

ただ働き始めると人間とは私とは不思議なもので、働きたくなくなる。なぜ働きたくないかというとお金を得て買い物や旅行などの自由は拡大したけれど、そのための自由にできる時間が減った。職場の人間関係や業務にともなういろいろなストレス。これらが主な原因だろうか。特に休暇が次の労働のための休暇という手段となっているのが耐え難い。日曜日になると感じる焦燥感と絶望感が嫌だ。金曜日の夜に感じる解放感は悪いものではないのだけれど。働きたくない理由はいろいろあるだろうけれど、端的には自由の制限と業務上のストレスなんだろう。それが給料として支払われる対価としての報酬に見合っていないと感じているのだろうか、というとそういうわけではない*2
働く意味を失ったのかというと、生活に必要だしお金は必要なので、唯一にして絶対的な意味は失われていない。
そう、つまり私にとって私の意思において納得した働く意味であるお金と、業務内容や職場関連・業務関連に関わるストレスが、こんなにも働きたくない理由ではないんだ。やっぱり、そうだった。なんとなく、それには気づいていたけれど、考えながら思考と状況をまとめてみて明確になった。
ん??ということは、ただめんどうくさいだけ?

見過ごしていたけど、それはありうる。ただ、めんどうくさい、それだけかもしれない。いやとても納得できる。これを書いていてしっくりくる。実になじむ考え方だ。そう怠いんだ。
私は料理が好きだし美味しいものを食べるの好きだし珈琲豆を焙煎することによろこびを感じるけど、それと同時に作業自体は面倒くさいと思うときが、ある!!!!好きなことをやっていること、つまり非強制的な労働・作業である料理や珈琲豆焙煎であっても、めんどうくさいだりぃーって感じるのだから。特にクリティカルな理由を、格好つけた意味をわざわざ大げさに見出さなくとも、実はただハチャメチャ滅茶苦茶に面倒くさいし怠いし煩わしいのかもしれない。とりあえず、私ははたらきたくない月曜日の朝起きるのが涙が出てくるほど嫌だけど、めんどうくさいなーと思いつつも仕事はやめずに、できるかぎり楽して働いていきます。早期退職するにはどうしたらいいのか考え始めてもいいのかもしれないわね。
転職した会社からリストラにあって遮二無二なって再就職を二ヶ月で決めた半年ほど前の自分が冗談のように思えるのだが、しかし生活の糧を得る手段がないというのは、それはそれで恐ろしかったんだ。安定した収入がない、生活を続けていくのが困難になるかもという状態がこんなにも恐ろしいものなのかと驚いた。この恐怖を覚えてしまったので、ますます自営業とかやるのが怖くなってしまっているのに気づいた。

*1:金についての議論はまた別の機会にしたい

*2:いや、やっぱり休日が充実していないことも、主な理由かもしれないぞ!

なにかを作り生み出すことって、やっぱり楽しい

3月24日放送した安住紳一郎の日曜天国にて、三ツ矢サイダープレゼント企画として「み・つ・や」の三文字を用いたあいうえお作文を募集したところ、リスナーから名作が沢山あつまったことを受けて安住紳一郎氏が「基本的に人間ってのは承認欲求というのか、創作意欲でいいものを出して他人にすごいと言われるのは気持ちのいいもんですよね」みたいなことを言われていた。
私生活でも労働においても、大なり小なり自分が作ったものを評価される/評価されないというのは感情や自尊心を揺り動かすものだと私も思います。んーー他人から評価される/されないという点に対しては色々とあるでしょけど、少なくとも何かを作り生み出すというのは私にって楽しいことです。

そうそう、そういう点でいうと最近の私はブログも書かず、SNSでつぶやかなくなって何をしているかというとワイフとPodcastを録って遊んでいます。ワイフとは毎日色々と喋っていていつもよく飽きないなと思うのだけど、それに加えてなにか毎回お題を互いに作って、それについてラジオ風に会話するのが楽しくて3か月も続いてます。なにが楽しいのかというと、やっぱり二人でなにかを作っているという実感なのかなと思いますし、ワイフは独特の言語センスというか面白さをもった人間で、そのセンスというか面白さが滲み出てきて、もしかしたらその面白さが私以外の誰かに面白い!って届くといいなという願いをちょっとだけ込めて―ほんとうか!?―Podcastを録っています。
二人で出来る遊びということでこれからも、都内在住のなんでもない夫婦がなにも着飾らずに生活の中のちょっと気づいたことや最近気になっていることを喋るという形でこれからも配信していきたいと思います。
きいてね!!

ユニコーンオーバーロードが出てSwitch欲しいなと思いつつ、ワイフがいるのに一人でゲームするのも気が引けるなと思いつつゲームへの集中力が続かない熱中できない老いを感じています。んーー欲しいけどいらないかなどうなんだろう。

Twitterをやめて1年が経った

14年近くTwitterに張り付いていた人間が、Twitterをやめたらどうなるのか。
興味がある人がいるのか分からないが、タイトルの通りTwitterをやめて1年程度経過したので、私の実体験に即して書き留めてみた。

Twitterの話題についていけなくなった

Twitterという空間にいなくなるので、Twitterで騒がれている話題や価値観がどうでもよくなったといえば当然なのだけど、本当に彼らが何を言いたいのか、なんでそんなに自分の人生に関わらないことに執着して感情をむき出しにするのかますます分からなくなった。これが私にとっていいのか悪いのか判断は控えるけど、心底どーでもよくなった。というか、本当に話題がわからなくなった。Twitterからコンテンツに誘導されることもないし、話題に関心を振り回されることもなくなった。逆にBlurskyなどにXの話題を持ち込まれると嫌悪感がする。ここはXとは違う空間なので、持ち込まないでほしい。

Twitterをやめられた優越感に浸れる

もうXになってしまい、まだ残っている人は今更やめてもTwitterを卒業できないんだよね!と優越感に浸れるのは素直に嬉しい。人は他人と違う点に優越感を感じることがあるー少なくとも私はそういう人間だ。だから思い切って、ここがタイミングだ!と跳んでしまってよかった。
本当に、まだ東京で疲弊しているの?って言った人は心底気持ちよかったんだろうなーー気持ち悪い

Twitterという世界から逃れられた

Twitterにいる自分を醜く許せなくなってTwitterを辞めたのだけど、そのおかげでTwitter内の価値感・言論空間から自由になれたのは気持ちがいい、清々している。この簡単に捨てられて逃げだせたという成功体験は本当に気持ちよかった。
実際の社会だと、自分が置かれている価値や言論の世界から抜け出すことはとても難しいけれど、Twitterを絶対に見ないいようにすると、そこの価値観から完全に開放されたという事実はとても気持ちのいいものだった。
そして、そこから離れて自分を見つめなおして、オジサンながら新しいことにチャレンジしたり、新しい趣味や生活を始めることができた。
これは即ちTwitterをやめたから、新しいことにチャレンジしたわけではないのかもしれない。けれど、あそこから離れて生活とワイフと自分との関係性を再構築する一つの切欠にはなったのかなと思っている。
ニワトリかタマゴかだけれど、私の人生の節目・転換点が23年には訪れていたみたいで、いいタイミングで辞めることができたなとはつくづく実感している。なにごとにも波というのはあると言われるけれど、イーロン・マスクに買収される前後くらいからTwitterに絶望的な居心地の悪さを感じていたのもあり、もう辞め時だよなという波に乗ってしまえたのは、私にとって正しい判断だった。
twitterにおける、私にとってどうでもいい議論に苛まれ、私は自律できなくなってしまった。そんなのは我慢ができないので、Twitterにおける善や正義に惑わされないよう逃げ出して正解だったと今は思う。

こんなことを書いていて、Twitterで初めて居心地の悪さを感じたのは「ヒウィッヒヒー」というよく分からない言葉が流行ったときだったと思い出した。はじめてTwitterの中に群衆というか大きな流れを感じてしまった。集団からの同調要請・同調圧力というと過敏な反応かもしれないけど、あの時はじめてTwitterで自分の外にある集団の流れを感じて、それに乗っている奴らも含めて気持ち悪いとおもった。その居心地の悪さが、もう我慢できないレベルに達したというのはある。居心地の悪さと今まで築いた関係を天秤にかけてつり合いが取れなくなった。
私がTwitterを始めたころの、個人個人が別々のバラバラで自分の趣味や意見を好き勝手にポストしている流れが好きだった。好き勝手いって、勝手に反応があったりなかったり、そんなつかず離れずの空間が居心地がよかったのだけど、その空間をTwitterで維持するのが難しくなったというのが、私的には、なにかカッコつけた理由としては、しっくりくる。
個人の良心・個人の価値観・個人の感性を私は、とても大切にしたい、それを個人間で戦わせるのを大切にしたいのだけど、それがなにか得体のしれない集団のセンスも知性も理性の欠片もないゴミのような集団VS集団の同調要請が無視するのも難しくなったというのがある。逆に今はマストドンではフォロワーが好き勝手に好きなことをつぶやいていて、私も特に気にせず流し見してたまに面白がる空間があって、居心地の良さを感じている。

インターネット人間関係はそんなに変わらなかった

これはそうで、完全に関係が切れてしまった方もいるけど、意外とインターネット上で仲良くしている人とは、また別のどこかインターネット上で互いに存在を確認したり、飯を食べたりしている。これは意外だった、驚きだ。Twitterを辞める前は、このTwitterで作られた関係があるからこそ、それがしがらみとなってTwitterから抜け出せないでいたけれど、やめてみても関係は続いているし、ありがたいことに別のインターネット選択肢があるから。Twitterの代替なんていくらでもあるから、君もやめても大丈夫だよって気軽にいえるようになった。

新しい趣味や配信先が増えた

恥ずかしながらBlogにも載せているけど、最近ワイフとPodcastを録るようになった。それ以外でもTwitterに居たころよりブログで投稿するようになって、果ては文フリでコピ本を刷るまでになった。本当に驚いている。おそらくTwitterで毎日呟いていたら、これは出来なかったかもしれない。Twitterをしていたら、こんな可能性は拓かなかっただろう。
私は間違いなく自分のことを外に出したい性分のようで、さらに職場の人間とは労働関係以上の関係は結びたくない。なので、自分のことをさらけ出す場所としてTwitterは本当に気軽に雑にウンコできる場所だったけれど、そのトイレが使えなくなったので、別の場所と方法を使うようになったのは、私にとっては心から楽しいことだ。
なによりも自分自身にとって何が大切なことで何が価値あることなのかについて、重要な問題は何かについて、以前より意識的に考える時間が増えた。かけがえのない自分との時間をより増えた気がする。

さいごに

Twitterという場所から供給される不特定多数の人間からの承認や評価に価値を感じなくなるほど枯れたオジサンになったのも、Twitterを抜け出せた要因かもしれない。得体のしれない1,000人に対してつぶやくよりも、もしかしたら届くかもしれない5人10人に対して発信したほうが楽しいかもしれない、少なくとも今の私にはそちらの方が価値あるものだと思えるようになった。
だから、私自身のためにBlogは書き続けるかもだし、ワイフとPodcastを楽しくやっていけたらなと思っている。そして珈琲はこれからも焙煎し続けたい。
Twitterは、これがなければ出会っていなかっただろう人との繋がりを作ってくれた大切な思い出の場所だった。本当に当時はかけがえのない居場所だった。でも、いつまでも人は同じ場所にはいられない、私もみんなも変わってしまうから、すべては思い出になる。Twitterも思い出になる時が来たんだ。ありがとうTwitter、バイバイ。
sebastianus.hatenablog.com

初恋の人について

Podcastで初恋の人についてワイフと喋っています

そろそろTwitterをやめて1年経つので、生活がどう変わったのかについてブログで書こうと思ったのですが
あんまりTwitterにもう触れたくないなと思いながらも、振り返りと総括はやらないよりやった方がいいので余裕があったらココで書こうかと思います。

そうそう、初恋の人について、彼の初恋はいつだったろうかと思い出してみる。彼はまだ幼かった、たぶん3歳くらい、機動戦士ガンダムZZというアニメがあって、それに出てくるプルツーが強気で健気で心はジュドーと通じ合っていたのに二人は幸せになれなくて、なんでなんだ!戦争はダメだと子供ながらにそんなことを思ったことを覚えている。その思い出と影響は、恐らく今も引きずっている。強気で勝ち気で健気な頑張る女の子をみると、どうしようもなく応援したくなる。
思い返してみると現実の女性を好きになる前に、彼は二次元の画面の中の女の子に恋していた。だからなのか、今だに画面の中の三次元の女性を好きになれない。まだ男女の区別もよく分かってない頃だったのに、三つ子の魂百までとは本当によくいったもんだ。
さて、男とか女って最初に分かり始めたのはいつだったろうか。思い出せるだろうか。幼稚園生くらいには、自動的に男と女に分かれていた気がするけど、はっきりと男女の違いを意識させられたのは小学4年生の頃、女の子二人とベッドの上で遊んでいたらお母さんに怒られた。
その時は三人してエッチなことをしてるって勘違いされたと大笑いされたけど、それ以来三人でベッドの上で遊ぶことはなくなった。その内の一人を彼は好きになったけど、その子は別の男の子が好きで、そして中学2年生になって彼氏と駅弁ファックしている話を彼に話しつつ黄色のブラジャーを自慢げに胸チラして見せつけてきて、彼の青いセックスしたくて仕方がない情緒をメチャクチャにした。今でのその映像は鮮明に思い出せる。彼氏と当時の新山下辺りに暮らしているといっていたけど、どうなったろうか。いまはもう、特に感慨にふけることもなく、こういう話題の際には思い出されるだけだ。

正月休み十二日目の日記ー冬目景のマンガを久しぶりに読んだ

出来るビジネスパーソンなので連休が終わるのを恐れる前に会社PCを立ち上げメールを軽く処理し仕事の勉強でありつつ個人の勉強をしていました。
いきなり冷たい水に飛び込むと死んでしまう恐れもありますし、心と身体をあらかじめ馴らし準備しておくのは、この過酷なグローバル競争社会を生き抜く上で死なないための基本ですよね。

変わったことといえば、15年ぶりくらいに冬目景のマンガを買って読みました。なんで、お前好きそうじゃんアフタヌーン系のコミックスってそうなんですけど、冬目景の『イエスタデイを歌って』のハルちゃんっているじゃないですか、あの黒髪で目が猫みたいに大きい娘、あのマンガを読んでハルちゃんをみたときに、「これはやばい、このタッチの作画で、こんな可愛くて健気で自分もあり主人公に好意を寄せる女の子なんて危険だ。女性に対する自分の感覚が狂ってしまう」と危機感を抱いてから触れないようにしました。いやあまりに一部の男性に魅力的すぎる二次元の美少女というのは危険です。その人の人生を狂わせますので、そんな人は一人いれば十分です。私の中には惣流・アスカ・ラングレーが在ったので危うく難を逃れました。で、読んでみたのは下北沢っぽいところで女の子がロックバンドをする、もう設定だけで大勝利なんですけど、ぼざろとはまた違った味わいで美味しそうです。まだ1巻しか読んでないのですが、ちゃんと異性が出てくるので、それだけで妙に不安になってしまうのは最近主流のマンガ・アニメに慣れすぎてしまったようです。

そうそう、今日は友人との新年会で羊を食べました。いやー羊って本当に美味しいですね。
あとは、そうだ神田伯山のラジオの藤原竜也の回を聞いたんですが、そこで伯山が藤原竜也のラジオについて、「藤原竜也のラジオによくわからないオジサンがいつも出てきて、そいつのよくわからない話きかされて、お前だれなんだよ!ってなる」と言ってくれていて、まじ分かる!!!って伯山のことがもっと好きになりました


それでは、また次の休日に会いましょう

正月休み十一日目の日記ーワイフと再びPodcastを収録しました。

十一日目って漢字で書くと間違えていないのに変な感じですね。不思議です。

今日はお正月休みも満喫したので自宅で勉強をしていました。仕事でAIに関するソリューションを扱うことになったのでDeep Learningニューラルネットワークの基礎の基礎について勉強しました。まさかこの歳になって微分や行列について勉強しなおすとは。。。頭がパンパンになっています。

さて、今日は1月7日なので七草粥を作りました。それだけだと足らないので切り干し大根の煮物と豚のカシラの味噌炒めも作りました。
あとは日曜日なので珈琲豆を焙煎しつつラジオをつければ安住紳一郎の日曜天国が流れて来ましたが、驚くほど結婚に関しては触れませんでしたね。別居婚なんですよって軽く触れるだけだったのだけど、どうして自分に対する妙な何かを持っている人は別居婚にしたがるんでしょうか。不思議です。
それと比べるものではないんだけど、七草粥の材料を買いに行きつつ聞いたオズワルドのラジオでは蛭子能収に顔が似ているほうの熱愛報道に関して1時間喋りっぱなしでした。ここで初めて井上咲良さんという方を知りました。Wikipediaで井上咲良さんについて調べると蛭子能収が好きという記述があり、あーとなりました。どうしてモテそうな人が垢抜けない方と結婚したり付き合ったりすると好感度があがるっていわれるんでしょうかね。不思議です。

もうすぐ休みが終わってしまう。あーーと思いながらまたワイフとPodcastを収録しました。ワイフが本当にたのしそうなので幸せです。
照れくさく自分って活舌悪いなーと恥ずかしくなるけど、シェアしておきます。

ではまた明日。