インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

ミドルエイジ・クライシスを迎え第二の思春期真っ只中のオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように泣き喚くブログです。横浜に帰ってきました

横浜に帰ってきたオジサンのベストバイ2025

みんなが今年のベストバイをしているので
ワイフのお出かけ準備の合間に2025年のベストバイを書きました。

家電など

マウスコンピューターのRyzen77700でRTX5060 Ti搭載のメモリ64GBで水冷のデカいマシーン!!!!
いままでSurface使ってAI動かしてPoCやっていたのだけど性能的に文章や画像分析とか厳しかったんだけど、こいつにしたらすごい早い処理がらくらく!qwen2.5-coder:14bあたりもサクサクうごく素晴らしい(gpt-oss-20Bあたりも全然いけるんじゃないかなワクワク)!色々と上がる前に購入できました。ピンク色に光ります。なぜ光るのかは不明です。

Panasonicのコードレススチーマー
 アイロンかけが楽になった、本当にこれはまじで洗濯したシャツのシワとかなら全然いける
panasonic.jp


マキタの掃除機
 時代はコードレスですよ。戸建てになるので階段用も含めてコードレスが助かる吸引力(枯れ葉掃除用も欲しい)

洋服

コムデギャルソンの黒いパンツ
数年間色々な黒いパンツを探していたけど今年6月にドーバーで見つけたコムデギャルソンの黒いパンツを冷やかしで着た瞬間にこれだ!となった。サマーウールで太いシルエットが抜け感もありつつモードでいい

カナダ軍 ECW コンバット パーカー フルセット
 仕事を頑張った自分へのご褒美に買おうと思っていた靴が実際みたら微妙でふらふらと彷徨っていた時に下北沢のMONKさんで出会いました。いや、画像どうするかですけど、M-65とはまた違っていて、胸のあたりのマガジン収納用のポケットもだけど、パーカーに付属した首周りを覆うためのディティールがカッコよくて一目惚れして買いました。すごいお気に入りです。今年のベストバイTop3に入る

体験

カフェスタイル・コジロウの珈琲レッスン
これはすごい。詳しくは言えないのだけど、コジロウさんからネルドリップでの珈琲の淹れ方をほぼ1on1で教えてくれる。わたしはこれで珈琲が更においしくなりました。
いままでの、ほわ~んっとした味から、よりキリっと明確な特性のある―だけど余分な雑味が減った―味に進化しました。まだまだコジロウさんのレベルには遠くおよばないとかじゃなくて、私的にも納得できないけど続けていきたいです。
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フレーミングリップスのライブ
 Yoshimi Battles the Pink Robotsの再現とかなんというらしいが、そんなことはどうでもよくってー私が大好きなFleaming lipsの日本ライブ!しかもその中でも一番大好きなYoshimi Battles the Pink Robotsのライブとなったら絶対に絶対に最高でした。Tシャツを買わなかったのだけが悔やまれます。
Thank you,Thank you,Thank you,Thank you,Thank you,Thank you,Thank you,Thank you !!!

柳屋三三師匠の乳房榎と柳屋わさびの落語
 野毛にぎわい座できいたのだけど、わさびのエアコンに爆笑して、三三師匠の怪談はジワーッと背中に油が纏わり粘りつくような緊迫感
志らく師匠の明治座公園のランジャタイ(事件になってない方のオール巨人)、トムブラウンのコント、疝気の虫がよかった。
神田松鯉の無筆の出世も、染み入る善の話を歌舞伎座で観れたのは今になって染み染みとよかった。私もかくありたい。

ヴァージン・パンクK
 これだよ!これこれ!!!梅津全開の美少女×バイオレンス×変態おじさん!最高でしたTシャツ二枚も買ってしまった。
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人生

横浜の閑静な住宅街に戸建てを買いました。2階建てのリビング広め天井吹き抜けで、なんかすごいことになっていますビックリ。大きい犬と暮らすぞ!!!風呂が足を延ばし寝れるくらい湯舟が広くて広い風呂のために銭湯いくのだけど、もう家でいいじゃん!となっています。未来が楽しみになってきた!ローン返すぞ!!労働やめられない!VIVA地に足のついた人生!
人生で初めての戸建て暮らしなので、これからはその日々を綴っていくのだろうか私は
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オジサンはなにがしたいのか分からなくて

 俺は何がしたいのかわからない。
40代にして不惑たらなんちゃらいうが惑いまくりである。惑いすぎてインターネットで泣き出してもいいですか。どうしてオジサンは弱音吐いちゃいけないんですか。
本当になにがしたいのかわからない。高校生の頃にヘルマンヘッセの「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」という言葉に出会い涙が零れ落ちて以来、ずっと分からずにいるのかもしれない。そんなことはない。分かっていた時はあった、だけど挫折して絶望して今、外資系企業でよく分からないビジネスパーソンやってる!以上!!
 いやだからさ、それじゃーっておもうわけじゃない。仕事頑張ってみなよ、やりがいってやつがムクムクと勃起するかもしれないよと?えぇ、やってみましたとも!!この数ヶ月、よくわからねー無茶ぶりに乗っかって土日もアフターファイブもいくつものAIやインフラと格闘して仕事に熱中してみたよ!!でもさ!あんだけ時間も労力も情熱も使っても、全然わかんねーーよ仕事なんかクソ!本番で満足できる結果じゃなかったらクソ!!達成感はあるけど、それがなに?結局刹那的な達成感で自分を誤魔化すだけじゃねーか。サウナで整うのとなにがちげーんだよ。所詮は雇われ労働者だから頑張っても頑張らなくてもそんな給料かわらねーしな。そんなんじゃ整わないし自分を納得できない。自分が職場で恥をかきたくないだけで仕事を頑張るしチーム内でゴミみたいな目で見られても居続けられる分厚い心臓はないので努力はしてリスペクトされているけど、そんなのは働いているから仕方がないだけで全然自分の目的にはならない。職場でリスペクトされても、こんなもんに価値はない私にとって、ほめられても自分で満足できなきゃ意味がない。セミナーでなんか胡散臭いこと話して拍手もらって、その後の懇親会で名刺交換でおべんちゃら使われて飲み会で最高だったとか言われても嬉しくない!!!!うれしくなかった。ありがとうっておもうけど。

自分が成功して輝いている自分がみえなくて辿り着けなくて、辿りついたのに、あれ?コレジャナイなとなって方針している。

ずっと同じこといってるな。私
知ってるよ。小学生の頃に夢見た土地に自宅買うし。おまえ早稲田大学も行けたし、なんか着たい服買おうと思えば買えるじゃん愛する人もお前を愛してくれる。満たされすぎて余裕がありすぎてなにがなんだか分からなくなっているだけだろ、落ち着けよ。おまえはしたいことをできているぞ。夢がかなってしまって次が分からなくなっているだけじゃないか。
あーーーーーまた駄々をこねているだけなのかお前は誰に認められたいんだ。おじさんになってもこれかよ救いようがない救われているから

何気なく聞いてみたアルバム(kurayamisaka yori ai wo komete)がよかったオジサンのはなし

kurayamisaka yori ai wo komete

youtu.be

何気なく聞いたアルバムがよかった。なんとなく、あーいいよねって済ませるのではなく
胸をなにか揺さぶり蹴破る衝動を感じた。そんな音楽や作品と唐突に出会うことがある。出会いはいつだって突然なんだ。

どこかで聞いたようなメロディ
どこかで聞いたことのあるような展開
どこかで聞いたことがあるようなフレーズ
どこかで聞いたことがあるかもしれない。
そんないい雰囲気の曲

でも、それがうまくいえないけど上手いこと合わさった時、それはいいものだなって思える時がある。
そんな一枚に出会えたかもしれない。

でも私は邦ロックとかに造詣がないので美味いことこの音楽の良さを語ることができない。
だから私のまわりのオジサンも是非聞いてみて欲しいとおもったわけだ。

ここからはオジサンの気持ち悪い自意識語り、若者の作品を道具として使ってしまっているようで気が引けるな。

そうだ。私は邦ロックやロキノン系というものを若いころ毛嫌いしていた。
なぜだかわからないが、FMラジオで洋楽のすごい楽曲にであってからはオリコンやTVの音楽番組の否定に始まり
ちょっと学校でいけている奴らが聞いている音楽を毛嫌いしていた、いやあんなの洋楽のパクリじゃんって(まー実際パクリとは言えなくても、多大なる影響を受けた音楽ばかりだったんだ私の若いころは)
そんな自意識をこじらせたオジサンが最近歳のせいなのか随分とまるくなってきた邦ロックとの和解がすすんでいる。
切欠を告白すると恥ずかしいのだけど、アニメの「ぼっちざろっく」を見て、この作中のある曲を書いている人の音楽を聴いたのを切欠に
若いガールズバンドの音楽を聴いたりライブハウスに行ってみるかという意識が芽生えたんだ。
それからいろいろと―たとえば東京初期衝動とかリーガルリリーとかチョーキューメイとかFor Tracy Hydeとかのライブまで足を運んで、キラキラしていいなって屈託なく素直に受け入れられる自分に出会った。
そんな軟弱に屈した自分に対して虫刺されたような怖気のするむずがゆさを感じつつも、なんだろうこの感情はね。
最近ではサカナクションを聞いて素直にいいね!って思いながら新宝島を口ずさむ自分におどろいている。

それじゃーオジサンはなにがしたかったんだっけ?

 横浜に帰ってきて1ヶ月が経った。帰ってきたといっても横浜はそこそこ広く人口は300万を超えているんで神奈川県から独立してもいいんじゃないかと大学生の頃から思っている。ここも横浜だけど、元暮らした横浜とは路線一本離れている。それはいいとして、横浜はいい。という話をしたいんじゃない。
 この前のブログの記事なんて覚えている酔狂で奇特な方はいらっしゃらないかと思いますが、私はやはり特別という魂に根付き蔦が絡まったこの価値観から逃れられない自分がいる。たまに、暇になると出てくる。
 日常の中に意味を見つけ、愛する人と幸せな日々を築き、人生は無意味だと悟り、しかし暮れ行く夕陽の美しさから私は生きてもいいという答えを見つけ涙しつつも、それ以上のなにかを渇望してしまう胸がざわめいてしまう何かを望んでいる。きっとぱーはぷす私は欲張りなんだろう。

 それじゃーオジサンなにがしたかったんだっけ?となる。そう、それを私自身と対話するのが今回の目的だ。
人生というものに対して、私は自分の人生に今はある程度納得している。横浜に帰ってきて夢を叶えている最中だ。恐らく夢は実現するだろう。
それじゃー他に何を望むのか。もう、私は孤独ではない私を理解し拒否し愛してくれる人がいる。それ以外になにか、なしたいことでもあるんだろうか。
 珈琲か?珈琲は大好きだ。だけど私以上に美味しい珈琲豆を焙煎して、抽出できる人がいる。私はまだ自分で満足できる自分を納得させられる珈琲を作れない。そうか、珈琲かやはり。もっと珈琲に対してリソース割くか。素人だからと臆病になり逃げるのではなく、もっと珈琲に正面から立ち向かっていくか。んー、そうか。珈琲に対しては情熱があるんだ。何もてらいなく、もっと美味しい自分が満足できる珈琲を、この手にしたい。もっとリソースを割いて、それでもダメだったらとか、お金にならないのにとか余計なこと考えて逃げるのはもうお終いにする時か。

何もしていないことへの不安感を感じているのでメモータフでグローバルな人材が燃え尽きた成れの果てのブログなんだこれは

 最近は仕事も一段落して余裕のある日々を過ごしている―仕事でやることはある/やったほうがいいことはあるのだが、ほとんど真面目に取り組んでいない。仕事のスキルアップのための勉強も、何をしたらいいのかなんとなく具体的なイメージがあり、それをすることで今後の自分の仕事を楽にすることに繋がるだろうが、それを全くせずに小説を読んだりアニメを見たり寄席にいったり珈琲を飲んだりと、基本的には消費・浪費に耽っている。その状態になにか焦燥感というか、このままで私はいいのかという罪悪感、危機感を覚えるようになっている。これはなんだろうか。
 危機感については思い当たる節がある、それは浪人生の頃や大学生の頃に勉強をやったほうがいい/そうしなければ目標を達成することは難しいだろうと分かっているのに勉強が身に入らず、怠惰に過ごしてしまった故の帰結を身をもって知っているからだ。ただ、だからといって今のは私は職を失うという心配は幸いなことにあまりないのだけど、やはりこれから10年後どーなっているだろうという不安を抱えている。
 完全に仕事に対するモチベーションはゼロに近く、任された仕事はほどほどにするかーという程度の指示待ち状態でいたいのに、それをしていると不味いことになるのが目に見えているので自分で仕事を作りに行っている状態だけど、仕事のやる気はないのでどーにかならないかと悩み、このままでいいわけがないと不安になっている。静かな退職をしたいのに、静かな退職状態になれないのが苦しいし、静かな退職状態になったらなったで不安になってしまう葛藤を抱えている。
 そんな不安や抱えているにもかかわらず、スキルアップのための勉強が全く手につかない。どうしてだろう。ここまでわかっているのに、手につかないんだ。静かな退職状態になりたいのに不安にもなる。

 またもう一方でこんな悩みも抱えている。BlueSkyでも書いたのだけど「なにか有意義なこと・意味のあること・生産的なことをしなければならない、そうでない人間は劣っているという呪いにかかっており苦しんでいる。「精神的に向上心のないやつはバカだ」みたいな意識からオジサンになった今でも逃れられないのかと自嘲気味に乾いた笑いが出てしまうが、実際に仕事の役に立つような勉強やスキルアップはおろか、余暇の時間にもなにも生産的なことはできていないという思い込みがあり、その両者が合わさって私を不安にさせている。
 そう、私には今、二つの線から悩みがあるみたいだ。

  • 仕事のスキルアップや、そもそも仕事にもっと真面目に取り組んだ方が―業務にも余裕はあるので―将来的にも安心できるし職場でもデカい顔でき、なんなら転職する際にも有意義のために、勉強や仕事に力を入れてもいいのだが全く身に入らない状況に対する苦しみや不安感
  • 余暇の時間があるが、その時間を怠惰に消費してだらだらと無意味に過ごしているだけで、なにか有意義な趣味や実益やワクワクすることができていない、キラキラが見えなくなって魂が濁ってしまっていることへの不安感

 この二つが私を何か焦らせ不安にさせている。このままの人生でいいのかと声を殺して私が泣き叫んでいる。暗い水に腰までつかって震えているようだ。

 手につかない原因はなんだろう。それは面倒くさいからだ。なにかを始めるのが億劫で勉強するのが怠い。やり始めると楽しくないわけではないのに、やり始めるまでが億劫で手を動かし始められないでいる。倦怠感がずっと残り続けている、燃え尽き症候群なのかリストラにあったことで仕事を頑張っても仕方がないという
 課題はあるが、今でも十分業務をこなし人生を歩み安定しているために大きな課題がないことも、怠惰に過ごしている理由としてあると思う。課題がない人間なんていないと思うが、切迫した課題・問題がない。もしくは切迫した問題が実はあって、今はそれに一生懸命対応しているために精神エネルギーがそれへの対処でいっぱいとなり余裕がないために手につかないだけだろうか。
 いやそれ以上に私という人間は少年漫画に出てくるような努力をし続け目標を達成することに喜びを感じるようなタイプではなく、どちらかといえば楽してオレツエーして人生を楽しみたい転生物に出てくる怠惰で肥え太った悪徳貴族みたいな人間の部分もあり、生活が安定したからこそ、怠惰でもいいやーー楽してまったり生きていたいという根源的な欲求が今は勝っているだけかもしれない。わからない。ただただメンドクサイ、これは心がどうしようもなく疲れ切って燃え尽きてしまったのだろうか。
 大学院を出て無職で惨めでどうしようもない状態からなんとか就職してキャリアアップしてグローバル資本主義社会にコミットし圧倒的成長をした結果が理不尽なリストラだったことに対する燃え尽きた、もうこの価値観も信じられないのに資本主義社会のなかで生きていかなければならない閉塞感と失望感があるんだ。それはまちがいなくある。
 我慢をして頑張って、その対価として今の給料がる、それにたいする気色悪い達成感的なものはある、だがそれがなんだっていうんだ。またリストラにあるかもしれないという不安感が心から拭えないでいる、もう努力をしても運が悪ければそんなものは関係がなかったことで頑張ることが苦しい―そういって逃げてしまえるエクスキューズがあるのも厄介だわ。

ミドルエイジ・クライシスにおける喜び/あるいはシミュラークルとしての感情

私は、仕事という名の虚構に倦み、人生という名の物語に飽き、どうしようもない感情の残滓を、布団という名の暗闇に溶かしている。それは、中学生という役割を借りた、涙という名の自意識の奔流。しかし、このブログという名の自己言及的空間は、既にその感情の断片で飽和している。ゆえに、今回は趣向を変え、ミドルエイジ・クライシスという名の虚構を生きる、第二の思春期オジサンという曖昧なシミュラークルが、生という名の物語に肯定的意味を見出した瞬間を、断片的に記述する。

先日、私はThe FLAMING LIPSのライブに参加した。アルバム「Yoshimi Battles the Pink Robotos」のアルバムの20周年を記念したこの祭典は、私にとって、ロックバンドという名の音響的現象のアルバムという名の音響的現象の私的Top 10に位置する音響的現象の祭典であった。ライブでは、「Yoshimi Battles the Pink Robotos」とが流れ、「Do you Realize」という名の音響的現象を会場という名の空間と共有した時、私は、生という名の物語に、この場という名の特別な空間が存在することへの肯定的な意味を見出した。

また、結婚記念日前日という特別な日に、恒例の鮨という名の食の儀式を、新橋しみづという聖地で執り行った。鮨を口にした時、俺は、生という名の旅路に、この味覚という至福の瞬間が存在・介在することへの感謝の念を抱いた。東京という欲望の街で、金という通行手形を獲得したことへの感謝の念を最も強く感じたのは、神保町鶴八(現はる駒)という食の神殿で、一人で鮨という食の儀式を執り行った時であった。聘珍樓や華正樓の中華、盛岡の牛タン、機屋のブラジル、苫小牧の北寄貝、おばあちゃんのバタートーストなど、記憶に残る味覚という至福の瞬間は数多い。しかし、味覚という名の至福の瞬間において、この鮨という名の食の儀式は、俺の脳という名の宇宙を最も強く刺激し、酩酊状態という至高の境地へと導いた。

そして、ワイフという魂の伴侶と共同体を作り、共に遊び、共に食し、彼女の笑顔という魂の輝きに触れた時、俺は、生という名の旅路に、この生活という奇跡の共同体が存在することへの感謝の念を抱いた。

※AIを用いて添削したものを更に自己言及的に遡及して記述を試みています。

この虚しくも過剰な労働の世界で―働きたくなさを抱えて―

ああ、今日もまた、労働という名の迷宮に足を踏み入れてしまった…。学生時代からの肉体労働訓練(洗脳ともいう)を経ても、この根源的な「働きたくない病」は、まるで悪性腫瘍のように消え去る気配がない。

さて、今回はそんな「働きたくない病」に、新たな光を当てる発見があったので、ここに記録しておこう。

その発見とは、「そもそも、なぜ私は働くのか?」という、まるで哲学の授業で大真面目に居眠りしていた学生のような、あまりにも基本的な疑問に対する答えである。きっかけは、妻との一時的な別居生活(決して夫婦喧嘩ではない、念のため)だった。

別居生活、それはまさに楽園であった。仕事が終われば、誰に気兼ねすることなく、漫画、読書、ゲーム、アニメ、大音量で音楽…!夕食は冷凍うどんで済ませたり、外食したりと、独身時代の自由を謳歌した。しかし、そんな楽園生活も2週間目に入ると、徐々に飽き、虚しくなっていった…。

自由奔放な生活を送っていたはずなのに、なぜか心は干からび、まるで切り干し大根のようにシワシワに。妻が帰宅した日、私は見るも無残な姿になっていた。そこで、ついに気づいたのだ。私が辛い労働生活をなんとか続けられているのは、妻との幸せな生活のおかげだと。

世間体を保ち、かろうじて社会人として体裁を保っていられるのも、妻という存在があってこそ。もし彼女がいなければ、私はきっと、糸の切れた凧のようにフラフラと放浪し、どこかの国でカレー屋かコーヒー屋でも開いていたかもしれない。それも悪くはなかった?冗談も大概にした方がいい。

…そう、そもそも私が働き始めたのは、妻と付き合い始めたのがきっかけだった。彼女に不自由な思いはさせたくない、カフェで好きなものを好きなだけ注文させてあげたい、そんな思いから、重い腰を上げたのだ。そして、彼女との結婚生活のために、転職やキャリアチェンジを重ね、今の自分がある。私は改めて、まっとうな社会人にしてくれたワイフの存在の大きさ、私の拠りどころに気づいた。

しかしお分かりだろう、これはよくない。何かをすることの意味を他人に仮託すると大きな後悔と失敗につながる。それを学生時代に身をもって無職になって痛感したじゃないか。骨身に染みて学んだはずだった。しかし、今の私の労働は、どうにも自分のためだけに捧げるには過剰すぎる。己のためだけに、こんなにも、こんな内容で働くなど、私には到底無理な相談だ。だが同時に、それだけではこんな労働を続けてはいけない。
そうか、そこで気づいたことがあった。
現代の労働は過剰なんじゃないか。

そう、現代の労働システムは、まるで時代に取り残された恐竜のように、近代の性別分業に基づいた設計のまま。つまり、一人が外で働き、もう一人が家を守るというモデルが採用されていた時代の勤務形態のまま働かされている(そうでないと著しく収入が減ってしまうことがほとんどだ!)。
しかし現代の都市部では、夫婦共働きがスタンダードになりつつある。これは明らかに過剰投資ではないか?パートナーと二人で働くのであれば、週3勤務の週休4日制でも十分すぎるはずだ。しかし、勤務形態という名の頑固な汚れは、社会と生活にこびりつき、私たちは学校教育という名の洗脳によって、週5勤務が常識だと心身に刻み込まれてしまっている。

これは過剰だ、いや、きっと過剰に違いない。資本主義という名の怪物は、この過剰を大いに歓迎しているだろう。現に、夫婦共働きが当たり前になった都内では、駅近の便利なマンションが、サラリーマン一人では到底手の届かない価格にまで高騰している。この高騰でほくそ笑むのは誰だ?少なくとも、日々汗水垂らして働く労働者ではないと、私は安易かつ危険な妄想に耽ってしまう。

それはさておき、やはり今の労働習慣、特に週5勤務というシステムは、明らかに過剰であり、無駄な生産によって地球環境を浪費している。人間のエネルギーだけでなく、労働環境を維持するためのエネルギーも過剰に消費している。これはSDGsという名の正義の剣によって、糾弾されるべき悪行だ。そうじゃないだろうか。良く分からない苦しいだけの労働のために限りある地球のエネルギーを浪費するのは倫理的に許されるのか?シャアも「地球に残っている人間は地球を汚染するだけの労働に魂を奪われた人々だ」と言っている。そんなことは言ってないだろうか?しかし労働から魂を解放する必要性を私は感じている。もう我々の心がもたん時が来ているのだ、それはエゴではないはずだ。

しかし、なぜ私たちは週5勤務という呪縛から逃れられないのか?そこには、勤勉を美徳とし、怠惰を悪とする、宗教じみた倫理観が深く根付いているのだろう。勤勉な労働者は、余計なことを考える暇もなく、移動も制限され、権力者や管理者にとっては、まさに都合のいい家畜だ。

しかし、個人の労働者という視点に立てば、効率化された現代において、この労働量は明らかに過剰だ。だが、倫理観という名の鎖に繋がれた私たちは、くだらない仕事でも、それっぽい「仕事をしている感」を演出する必要があるのだろう。そして、人々は労働倫理の奴隷状態から抜け出せないまま、今日もまた、無意味な労働に身を捧げるのだ。ああ、なんとも救いようのない、哀れな私たち。

みたいなことを考えていた。最初はこんなに働いても鬱にならずなんとか平穏を保っていられるのはワイフのおかげという気づきを書いていたが、そもそもそもそもなんでこんな苦しいんだ、その一つには働かされすぎがあるよなと、無意味な労働は勤勉であれ(フリでもいいから)という倫理観がグローバルスタンダードになりすぎて倒すのは大変そうだなと。。。