インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

ミドルエイジ・クライシスを迎え第二の思春期真っ只中のオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように泣き喚くブログです。横浜に帰ってきました

あるいは、宮本常一『生きていく民族 生業の推移』を読んでの雑感(なぜ、こんなにも働きたくないのかについて考える準備1)

 河出文庫が半額?セールか何かだってのでソローキンやミルハウザーを買いつつ労働に関するであろう宮本常一の本を読んだので、その感想も兼ねて私がこんなにも働きたくないのは何故なのかについてこの3連休で改めて土台つくりのため考えてみた。ひと通り読んだ素朴な感想としては、自給自足しなくなり人々が賃金労働者としてよりよい待遇と賃金を求め仕事や場所を転々とする様は、江戸時代も現代も変わらないんだと笑ってしまった。

この本の解説には、本書は自給自足の生活が出来る民と自給自足が難しい環境に置かれた民との、生活と仕事の違いについて様々な例を挙げている云々と書かれている。それはまちがいない。
しかし、より重要なことは昔は本書で語られる通りであったが、なぜ今日は農村から人口がどんどん減り、いままでの家業というものが失われて都市生活へと変わっていったのかについて語ろうとしていたのではないだろうか。

この本は石川啄木の有名な詩「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」という労働者の悲しみを端的に完全に表現した詩から「生きてゆくということはほんとうに骨の折れることである」と、はじまる。

私が本書の中で一番驚き、またここが確信だと理解したのは、当時の農家の方々も彼らの労働は過酷でこんな仕事は自分たちまででよく、子供たち(娘)に受け継がせたくないという意識があったことに私は驚いた。それはそうなのだ。人はやはりなるべくなら厳しい仕事はしたくない・させたくないのは当然だ。
また当時の昔の職業・地位に対する価値観も、将来の成型が立てられないような職種は軽蔑され、一方で働かないでも暮らしていけるようなものが尊敬された。あくせく働くが稼ぎのすくないものは軽視すらされたとある。
だからこそ、その当時の人たちも、できるだけ楽になりたい楽に働きたいからこそ農村を離れ、可能性のある都会に出てきた。働いても働いても楽ならない、そういう社会・仕事から抜け出したかった。職業に対する貴賤は時代によって変わるだろうが、厳しく稼ぎの少ない職業が避けられるのはいつの時代も同じようだ。そしてよりよい暮らしと楽のために、新しい仕事と社会的地位に就くことを求めた。
そういった女性や次三男が農村で置かれた状態と、自然な要求の流れに乗り、女性は農家から逃れ、都会へと移動し、それを追って男性も移動したことにより旧来の社会体制の崩壊と新しい社会の創生を見出そうとしたのがうかがえる。
苦労から貧乏から抜け出したい楽になり社会的地位を上げたいというエネルギーによる社会変動に着目した本だと私は理解した。

今回の読書を振り返って改めて認識したことだが。たとえ時代や文化が異なっていても、基本的に人は、食べなければ生きていくことはできず、そのため働く必要がある。*1
生きるためには食べなければならず、そのための食料を自給自足できない限りは、なんらかの手段や方法を用いて食べ物となにかを交換する必要があり、都市部という環境にて食料を自給自足することは難しいため、都市部の人は交換可能な貨幣を得るために仕事をしなければならない。最低限飢えないためにもだ。
現在の都市部で自給自足することが困難というか馬鹿らしいことになる理由は、その土地から得られるだろうカロリーよりも、その土地を他の何か金になることに使った方がより多くのカロリーを得られる可能性が高いからだ。だから都市部に生まれ育った私のような人間は否応なしに貨幣のため働くことがなかば運命づけられている。または土地を都内に所有しているものでも、ほとんどの場合自分と自分の家族が養えるほどの土地を準備するのは難しいだろう。万が一あったとしても、それは極めて贅沢で愚かな行為とみなされるだろう。
もちろん、都市部に生まれ育った人間が、どこか地方に移住して自給自足の生活を送ることは不可能ではないが、そのために冒すリスクとかけるコストに対するリターンを考えた場合、都市部で賃金労働者として働いた方が、より多くの多様なカロリーを得られる可能性が著しく高いと想像できる。だから私のような人間は、地方への甘い幻想を望郷を心に抱きつつも、賃金労働者として貨幣を得て、カロリーと交換し生きていくことをほぼ選ばざるをえない。繰り返しなるが、絶対にそうしなければならないと、昔のように暴力や法によって定められたわけではないが、その一方で自給自足する手段がほぼないために、なんらかの手段・稼業をもってなんとしても金を稼いで暮らさねばならない。生きるためには、賃金労働がなかば強制されている。
また、ここは大変重要なポイントなのだが、豊かな土地における自給自足の生活であっても、カロリーのためにある程度の労働をする必要があることは、地方でも都市部でも変わらない。基本的に人は、食料を得るために働く必要がある。これは人間という生き物にとっては避けがたい宿命だろう。この宿命から逃れたいという希望は私にはない。なぜなら私は美味しいものを食べるのが大好きだからだ。

 ならだ、ならばだ。私も、そして多くの者が文化や時代が違っていてもそうだったように、働いても働いても暮らしが楽にならない職業より、働けば生活が楽になるような稼業を選びたい、そのために動くと考えられる。すくなくとも私はそう考え、そう動いた。つまり、働かなければならないのならば、可能な限り楽な仕事でお金を増やせることができるのが最高だろうと他の方々と同じように、私も考えた。どうせ働かないでは生きていけないのならば、可能な限りよい環境で可能な限り高い賃金を得ることを選ぶ、どうせ働かなければならないのならば高い給料の環境を選ぼう給料を増やすことだけを考えキャリアを考え動き働いてきた。
そして正直、生活は楽になった。働けば働くほど生活は楽になった。だけど、結局は働いている。私は働きたくないんだ。なぜだ。生きているのが根本原因なのか。そうか、人間は労働の刑に処されている。

 はたらいて職を変えはたらき生活は楽になれど、猶わが労働は終わず ぢっと通帳を見る

はたらきたくなかった。私は、大学生の頃の私も高校生の頃の私も働きたくなかった。お金は欲しかった。働いてお金は手に入れた。でも、結局働きたくないという気持ちには変わりがなかった。それは働いて貨幣を得て、ある程度好きなものと交換ができるようになり生活が楽になっても同じであった。はたらきたくないという思いはなくならない。より強くなるばかりだ。

*1:今の時代の日本は働かなくても生活保護という手段を用いれば生きていくこともできるが、それは一先ずおいておきたい