インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

欲しいものがなくなってきたオジサンの近況

最近欲しいものがなくなってきた。*1
それが意識されたのは、誕生日で自分へのご褒美プレゼントになにが欲しいかなと思いを巡らせた時

生活に必要なものはーそれこそパンツに下着とか靴下とか美味しい味噌や醤油はーほしいのだけど、特にそこまで生活に必要でないなにか特別なものを欲しいという気持ちが沸き上がらないのを感じる。
私は働く活力として欲しかったものを買って消費したいという欲望を燃料にしていた割合がかなりあるので、ここから何のために働いているんだっけという、月並みで贅沢でありきたりな疑問を抱きそうになっているーその意識はいったん脇に添え物のように置いておくとして

私の欲望というものはどこから来ているんだっけと考える前に、ルネ・ジラールのミメーシスを思い出した。私の欲望は自由で自立した個別的な欲望ではなく他人の欲望の模倣である(という欲望もある)というあれだ。
私は素朴に言えば、他人と同じにはなりたくない他人の模倣者にはなりたくない他人が欲しがるようなものは欲しくない!というタイプの真っ直ぐで純粋な人間なので、この話は私にしては珍しくすんなりと受け入れることができた。なぜなら私もまた他人とは異なっていたい同じは嫌だという点において他人の欲望にたいしてとても敏感だからだ。
そうやって生きてきたのだが、最近は流行りや今っぽいことも試してみようという好奇心から今の流行りっぽい服を着てみたり流れに逆らわないで乗っかることをしてみたら意外と楽というか、思いのほか斜に構えつつ流れに乗ることも苦も無くできてしまった。なんとなく、そんな結果に拍子抜けしてしまっていることはある。チャレンジしてみたらこんなに簡単だったんだって。どうやら私は思った以上に流れに乗って漂うのはできるようである。それがどうしてもできない人からすればうらやましい限りだといわれてしまったのだが難しいもんだ。

私はかなり無理して他人と違うようにありたいとおもい、それを実践してきたために、たぶんそのまま地元の流れにのっていたらたどり着けなかった島にたどり着いた感覚はあるので、そこは後悔していない。
一方で、ある程度やってしまって、次に私はなにを欲望にして動力源にして動いたらいいだろうかと悩んでいるんだと思う。
なりたい自分になれたかというと疑問というか、なれなかったのだけど、ある程度やりたいことはやって、なんとなく目標としていた結婚生活とか住居とか年収は達成してしまったのも、特に欲望が見つからない原因かもしれない。もしくは未だ叶っていないけど、まー将来的には達成できるだろうなという容易に想像できてしまうのも大きい。そう、喜ばしいことなんだよ安定したんだようやく。

仕事に関しては、私はなんにもできない一番の下っ端でいつ新しいチャレンジを推奨させられる対象になるか危機感はあるのだけど、熱量も欲望もないし馬鹿にされてもこいつなんでこんな仕事に心血注げるんだろう愚かだなーと飄々としていられるので、とくにこうありたい!みたいな目標もモデルもない。ある程度テキトーに楽にできる限り沢山お金をもらって仕事をこなせればいい。仕事で分からないことがあると楽になれないため、仕事で楽になるために勉強して安定しポジションについて楽して心配なく労働時間も短くお給料も満足できるくらいにはもらっていたいので、そのためのことややる一方で、そのため以外の熱意も欲望もない。誰かみたいになりたいという欲望も憧れもないので、ふんわりやっていきます。

美味しいものに対しては欲望は常にあるのだけど、一方で何か月も先に予約して食べるというのがあほくさくて、私は今食べたいものを美味しく食べたいので、なんか予約のとれないすごい店への欲望もないので、自分で作ることにどんどん注力しているし、寿司はいきつけの寿司屋ができたので、そこで安定してしまった感じもある。

コーヒーに関しては奥が深いのと本格的な焙煎機を買うとなると自宅では無理だし、そこまでしたいのか、いや今の機材でまだ極められる領域にまで残念ながら達していない上には上がいるので、ここにはまだ意欲が見いだせる。
特にオチはないとおもって書いていたけど、意外とまごつかせているんだな私

*1:物だけど食べ物はまた別の話だ。美味しいものを食べてこその人生であることに変わりはない