インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

暇で退屈で疲れたオジサンーなぜ私は働いていて、こんなにも働きたくないのかについて2

ハイデガーの退屈についてざっくりとした私の理解では、退屈とは意味がない・価値がない・目的がない状態のことだ。
となれば、いま私は退屈である。この私的思索の結論を先に述べるなら、何もすることがなくて不快というよりも、何かしたくても疲れていて、私にとって意味あることがなにもできていない感覚があって不快である。だから、こんなにも働きたくないと感じている。

前回のブログで、私はどうしてこんなにも働きたくないのかについて、自分なりの一定の状態に対する理解を得たのだが、その一方で根本的な理由には辿り着けていなかった。そこは自分に対してもはぐらかしていた*1
そこでもうちょっと私は考えた。働きたくないというのはなぜかについて。
そしてシンプルな答えが転がり落ちてきた。それはひとえに、働く理由が見いだせないからだ。
今の仕事のお給料と業務と義務に見合うほどの意味を労働に見いだせない。正直言って今の業務内容に環境が酷くないーどちらかといえば恵まれてるーにもかかわらず、この労働によって引き起こされる疲労や苦労に対して憤りがあり、そのために働きたくないと今までよりも強く感じていると思われる。
つまり、働いているにも関わらず、いま生きている意味と目的を見失っているために、生きるため働くことに価値を見出せない。
ただ安定した生活を回復した状態だということだ。人生に覇気がなくなってしまっている。

ただ、もちろんこれは、以前の無職の頃の、若いころの、リストラにあったころの私に聞かせたら腸が煮えくり返るほど幸福で自由な状態ともいえる。充実したキャリアアップできる仕事があり、生活は安定していてお金に不安がある状態ではなく、なにかを出来る自由な状態だ。安定していて、その土台の上に自由を築ける状態。にもかかわらず、安定するために疲弊していて、自由を築ける余地があるので自由なことができず自由を浪費している状態。それが今の私だ。だからこそ余計に労働による疲労からくる不自由・気力の低下が心から憎く、労働をしたくない。
なぜこんなにも仕事がしたくないのかについて、より明確になった。

つまり、私は私のしたいことをしたいにも関わらず、労働の疲れからか、私は私のしたいことができず、せっかく手に入れたお金や自由を私が満足する形で使うことができず、ただただ自由を浪費している気がして、それが悔しくて理不尽に思え泣き出してしまいたくなって、だから私は私を疲れさせる労働をしたくない。という次第だろう。

ということは、冒頭で私は退屈だと書いたが、それは正確には正しくなく、私は退屈な状態を労働によってなかば強制されている。とも考えられる。
また人を労働によって疲れさせれば人は意義のあることよりも、水は海に向かってながれるように、手短な娯楽に時と金を費やしてしまう。本当になんにもしない暇で退屈な時間は出来る限りさけたいし、手元にお金があるなら折角手に入れた意味を得たいがため使いたくなる。つまり現代消費社会では、安易な消費を消費者に促すために適度に疲れさせ、消費させるようにシステム的に設計され、人は自由意志と勘違いして働かされたその金を安易に費やしてしまうのだ。これで経済は回っていく。スマホは便利であるが人を即座の手軽な消費に誘うための凶悪なツールだ。スマホとインターネットは本当に即座に人を消費行動へと誘導できる、まさにそのための消費社会の権現みたいなツールだ。みたいな現代消費社会批判みたいなことは、まーどうでもいい。
どうでもいいのか。そうでもない。これで消費社会的な価値に自分が価値を見出せるのなら、ブランド物やトロフィー的なインスタ的な消費に意味を見出せるのなら、まだ労働する意味も見いだせるだろうが、それもある程度やってしまって、そこまでもう消費に価値を見出せないでいる。別のことに価値を見出したがっている。だから今が苦しいのは分かるのだけど。

ここで前回の思索から気づいたことを合わせると、なぜこんなにも働きたくないのかについて以下のような結論に至った

  1. 労働によって疲労し、それによって私の人生の時間を有意義に使うことができないため
  2. 労働によって生活は安定したが、その安定によって得られた自由は制限された自由であり、私が試してみたい自由を行使するには少なすぎる自由のため、納得できる程の自由を行使できないため
  3. もし私が求める自由を行使した場合、さらに疲弊してしまい生活も労働も私的活動も破綻することが目に見えているため、理性的に合理的に考えてしまうと、なにかをすることが億劫に気力がわいてこなくなってしまうため

このような形でまとめるとより明確になった。つまり「疲労・疲弊」がキーワードになる。仕事による疲れから人生の意味を謳歌できなくなっているという意識があるため、人生に対して退屈と感じ、それ故に私は働きたくなくなっていると考えられる。
疲労というと面白いのはシモーヌ・ヴェイユだろうか。彼女は自ら工場労働に従事することによって疲労について大変共感できる言葉を残している

「肉体労働の大いなる苦悩。もっぱら実存するためにだけ、かくも長時間にわたって努力を強いられる。奴隷とは、疲労困憊の代価としていかなる善も目的とはならず、たんなる実存しか与えられない、そういった人間のことだ。」『重力と恩寵岩波書店、P305

仕事と労働の差別化は奴隷が自らの境涯を慰めるための区別でしかないと思っているのだが、やはり労働と仕事に対する知識と、そして新たに気づいた「疲労」という観点から、私はなぜ働いていて、こんなにも働きたくないのかについて、考察を進めていきたいと思う。ここになにか面白そうな発見があるかもしれない。

*1:実際、珈琲豆の焙煎も、その作業自体はやはり面倒に感じる時がある、特に暑かったり疲れていたりすれば!