インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

夏が終わったんだ

今晩食べた寿司がとても美味しかったので、これからちょっとだけオジサンの話をしよう

私は世間一般で言われる社会人つまりはビジネスパーソンとなり、お金をもらって自活して生きているオジサンだ。
これでもオジサンは若い頃は熱意や希望に溢れる日々を送っていたが、今じゃご覧の有様だ。
その今の生活に不満かっていうとそんなことはない。週休二日制で有給も取りやすく残業時間も少ない今の職場にはある程度満足している。稼いだお金で寿司を食い珈琲やお茶を飲み、休日には登山や旅行にでかける。とてもとても充実した生活を謳歌できていると思う。別に青春小説によく出てくる決まり文句のように何か自分を騙していたり人生に疑問を持っているわけじゃない―そういう青臭い魂はすでに十分発酵され落ち着いた漬物になっている。
そうじゃない、そうじゃないんだ。わからないかな、この背中に張り付いた違和感?夜中にグールドを聞いても寿司を食べても最高の東方美人を飲んでも恋人とデートして焼き肉食ってセックスしても抜け落ちないこの存在。あの日々を

夏が過ぎ去ったんだと思う。僕の人生の夏はもう終わった。そりゃあそうだ私はもう30代のオジサンだし
夏が終わったんだ、そうだ、その表現はしっくりくるぞお前!good boy!!
高校生の浪人生の大学生の大学院生の頃の私は真っ赤に燃えていた。燃える太陽だった。恋の季節だった。夏だったんだと思う。
太陽のように多くを見下し、色々なものに憤り熱くなり燃えて燃えて熱を言葉にして力にして動力源にしてまた燃えていた。本を読み勉強をし人と会話し食ってかかりボランティアしたり政治に参加したり文章を書いて恋をしてセックスしてオシャレして飯も食わずに100円の珈琲で一晩中話をしていたあの頃の僕は燃えていた。何かわからないものに抗って、敵を見つけて攻撃しないではいられなかった。真っ赤な顔の天狗みたいに鼻を高くして怒っていた。
頭が悪かった勉強もできなかった、阿呆であった稚拙だし間違っているし愚かで馬鹿であった。だけでも熱く太陽のように熱く燃えて刺していた。元気いっぱいちんちんだった。

夏が来ない、もう夏はきっと来ない。人生をそれなりに頑張っているんだけど、もう絶対に来ない。もう僕に夏は訪れないんだろう。それは別段、悲しんだり悔やんだり大袈裟に悲劇的に騒ぎ立てることじゃない。

きっと今の私は今までの人生でかなり充実していると思う、なぜなら自由になる小銭が増えたからだ。どちらかといえば春だ。ぽかぽかと懐も心も暖かい。
だけど、間違いなく熱は消えてしまった。全てを焼き尽くしたくて仕方がなかった熱は冷めた。確実に今私からは多くの熱が消えてしまった。本を読む量も激減したしTwitterのポスト数もへった。なにより文章を書かなくなった。私はブログを書く方じゃないけど、文章はいっぱい書いていた。いまは会社で毎日メールを描くばかりで、なにか自分の内からこみ上げてくるものに従ってアウトプットすることがなくなってしまった。いまも勢いと金曜夜と寿司の力に頼ってこんな愚痴を吐露するのがやっとである。これが今のオジサンに出来る精一杯のうんこ。

今の自分に違和感があるか―答えはまだちょっとだけアグリーだ。新しく履いた靴に慣れてないんだと思う
価値観が変わった、人生が変わった、生活が変わった、まあ色々言えるし考えられると思う。ただ事実ベースで書くと今の私にとっても最高のソリューションは寿司だし珈琲だし登山に変わったってだけなのかもしれない。そのあたりの価値判断を無粋にすることはまだ辞めておこうと思う。ここまで今の私の心境を吐露できたのが驚きである。やはり寿司は人生の最高のソリューションだ。

第一回 江東茶会記録

第一回の茶会で飲んだ茶などの記録

白茶 孟海白毫(雲南
 繊細だが香り立つお茶、後味に確かに感じられる甘みが格別。ポットの香りはとても濃厚で5月の山のように芳醇な草土の香りがした

東方美人
 青茶らしいダージリンとは一線を画する口の中でまろやかに溶ける味。温度は気持ち紅茶より低めのがよりまろやかになり美味しい。

紅茶 狭山2nd ふくみどり 2015
 サツマイモの香りの味がする紅茶、おどろいた。こういう紅茶があるのかと、渋みもそれほどなく紅茶の味もちゃんとしている面白い紅茶

水だし珈琲 マンデリン/ブルーバタック
 口直し的に、薄目で作った

紅茶 ルフナ ルンビニ農園 extra special
 驚きを禁じ得ない。ルフナは繊細で雑味や苦味のない紅茶として人気でおいしいが、この紅茶はトマトやスイカといった野菜のフレッシュな香りのする紅茶だった。面白い本当に面白く美味しいお茶だった。

コピ・ルアック
 香りが飛んでしまっていたなあ

「おかし」
 福どらのドラ焼き、ドラ焼きの中に果実がそのままドーンと入ってる。これは女の子受けの良い美味しいお菓子だわ

総じて紅茶も中国茶も美味しく煎れることが出来たと思う。
またダージリンなどを共有できたらいい

江東茶会(仮)立ち上げ

人生には潤いが必要だとよく人は言う。
確かにその通りで人は水なくしては生きていけない。労働という荒野とグローバルという海を渡る我々ビジネスパーソンにとって水分の確保は大航海時代の船乗り達と同様に生き残る上で欠かすことの出来ない潤いである。

そう、我々は常に潤いを求めている。
だからこそ東京という砂漠には酒や珈琲がこんなにも溢れている!

しかしその一方で、お茶の専門的の数は少ない、残念ながら決して多くはない。
これだけペットボトル入りのお茶が権勢を奮っていながら本格的なお茶を楽しめる空間が限られているのだ。お茶を気軽に楽しみたくても余計なコストがかかりすぎるのだ。
そこで私はそんな空間がないのなら自分で作ってみるのもありではないかと思い、ここに江東茶会(仮)なるサークルを立ち上げることにした。

自分で喫茶店は開けないけどティーパーティならできるんじゃね?という発想の元、お茶や人や潤いを求める渇いた人達とお茶の飲み比べや茶葉のシェアができたらいいと思っている。

イリュージョニスト感想

イリュージョニスト
わざわざ私が改めてレビューを書くこともない名作である。
「僕のオジサン」で有名なジャック・タチ監督が生前書き残した脚本を元に
ベルヴィル・ランデブー」のシルヴァン・ショメ監督による映画作品である。

映像・音楽・物語
どれをとっても素晴らしき作品なので鑑賞を薦めたい作品だ、ちょうどお正月休みに退屈な時間でできてしまうでしょうし

この作品中で私が特に感じ入ったのが「イリュージョニスト」というタイトルが示す言葉の通り、幻影・幻想の使われ方だ。コミュニケーションにおける媒体としての幻想の使われ方が印象的だった。

ネタバレなのを憚らず言ってしまえば、この作品は幻影に囚われることの、人によっては虚しさと別の人にとっては希望を描いている。
1959年、主人公のイリュージョニストスコットランドの田舎町でとある少女と出会う。
彼は人のいい人物である―お人好しといってもいい、舞台の上でなくとも誰にでも手品を披露しささやかな喜びを生み出し見出す。その日常の内のことだったのだろう、彼は彼女にも手品を披露する―赤いくつをプレゼントした。
 彼は彼女に亡くした娘の幻想を重ねてしまった。イリュージョニストがイリュージョンにかかってしまったのだ。
それからの彼は彼女の我が儘をきき彼女の求める都会的な洋服などを買い与え、彼女はあどけない田舎娘から立派な今どきの都市の香りのする女の子へと姿を変えていく。そして、都市の男とデートし雨の中キスをするまでになる。彼は居場所のなくなった都市を後にし、彼女はテレビのある都会に男と残ることになった。

 あらすじはこんなところだろう*1
彼女はイリュージョニストと出会い、彼を童話に出てくる様な魔法使いという幻想を見る―それはあたかも幼子が父をなんでもできるスーパマンなんだと思ってしまうように。
 彼はそんな幻想に応えようと慣れないだろう仕事までして、彼女に魔法で服を買い与える。彼は彼女の抱く自分への幻想と自分が囚われてしまった幻想、彼女は娘で私は父であるという幻想をこなそうとしている、そんな風に私には思えた。
 しかし、この物語はなにか特別なことを語ろうとしているのではなく、ごくごくありきたりな父と娘の風景であると言える。なんでも生み出せるパパと、そんな娘の期待に頑張って応えようと頑張るパパというのは理想的でありきたりな関係であると言えるのではないか。
 それがこの作品の面白くなんとも魅力的なところなのだと思う。この二人はイリュージョンで結ばれた関係である。互いが互いに別の誰かを見出しつつ関係を維持している。それはちょっと歪だし、彼女の奔放さや無知に視聴者はイライラさせられてりもするだろう。
でもだけど、そういった関係性というのは、ごくごくありきたりな親子関係であって、親子関係というのはそういった幻想によって関係が成り立っているのかもしれない。

 彼は帽子を売り、相棒を野に放ち、最期に電車内で少女に対して魔法を使うのではなく手品を使った。イリュージョニストは自らかけた魔法から目を覚まして、どこいいくのだろうか。それはまた別の話なのだろう

*1:この作品の中では古い幻想と新しい幻想として手品や腹話術とロックンロールやテレビが対照的に扱われている。そして人々は古い幻想には魅力を感じることなく、古い幻想が追いやられていく様が描かれている。のだが、これは「ぼくの伯父さん」にも現れることで、私には主題とは思えなかった

映画「かぐや姫の物語」感想

面白くなかった!!!でも本当にいい作品だった!
というよりアニメじゃなかった!
少なくともアニオタ向けの作品じゃない。
タイトルに偽りなく、かぐや姫の物語であった。

この作品は、ヒロインのかぐや姫をどこにでもいるひとりの女の子として描いた作品であった。

ネタバレ盛り沢山です

アニメじゃない、これは竹取物語なんだよ!って
日本のいわゆるアニメになれた私たちをバッサリと袈裟斬りしてくれる作品であった
私たちは例えばアニメ、とくに古典の原作だと「これだけ有名で皆に知られた作品をどう調理してくれるんだろう」
という勝手な妄想がある、かぐや姫にだけではなくヒロインという存在と役割に過度な勝手な期待をかけることがある。
しかしこの作品はそんな我々の勝手な期待、物語やヒロイン像の投影を「そんなんしらねーよ、まどマギとか深夜アニメみてクソしてねろ!」とぶった切ってくれる作品であった。
その点では観てよかったと思わせる作品だし、面白いと思う
日本のアニメは主人公やヒロインに過度な期待や役割を追わせ過ぎているとは常々思っていた私にとって、かぐや姫というヒロインは良くも悪くも等身大であった。そこが昨今のアニメに慣れてしまった私たちには所謂つまらなく映ったかもしれない。


作品としての出来はすごくいいし声優陣も本当にうまかった。音楽があってないなーとは思ったけど、不快はまあ妥協できるくらいだ。
しかし、しかしだ。捨丸兄ちゃんの出し方は面白くなかったと言わざるをえない!覇王翔吼拳を使わざるを得ないくらいイラっときた。
かぐや姫の大筋としては、身近な初恋にも似た思い出とともにある捨丸兄ちゃんを忘れられない都会に登ったお姫様が田舎とお兄ちゃんを忘れられなくて苦しむというシンプルなストーリ―だ。本当にかぐや姫は幼い少女として、誰とも結婚したくなく田舎に帰りたい女の子として描かれているし、物語中ではイケメン石作皇子の青臭い殺し文句にころりとヤラれてしまった落ちる寸前であった。都が嫌で自分をわかってくれる人がいない中で、男どもが愛想を尽かしてはやく田舎に帰れるよう無理難題をふりかけ虚勢を張る女の子であった。
私はかぐや姫ではなく竹の子に戻りたかったという彼女の思いは一貫している。彼女はそれ以上の何か特別な存在ではなく、月から来た不思議な絶世の美少女であるにも関わらず、本当にあどけない普通の少女として描かれていた。そう描ける、まっすぐ描けるのは流石としかいいようがないだろう。
 ただただ良くも悪くも、素朴な女の子の悩みを描いた作品だったなあ

悟りは幸せなんじゃない、土虫獣に人と交わる、この煩悩とよばれる執着や愛こそが美しいんだ!!ブッダのクソ野郎ファック!と最後にキメてみせたかぐや姫カッコ良かったです。
あとまあ色々仏教とか生命賛歌とかを交えていろいろこじつけて語ることもできるだろうけど私の素朴な感想としては以上ですね。
あっ、女性受けはいいと思います

追記
そうか!
かぐや姫の物語のかぐや姫は
宮崎アニメに出てくるヒロイン像の否定だったんだよ!!!!
少女に色々なものを仮託する宮﨑駿への返答なんだよ!!!
(; ・`д・´) ナ、ナンダッテ━━━━━━!! (`・д´・ (`・д´・ ;)

まどか☆マギカ映画の感想

周りで評判でみんな感想とか書いているので私も久しぶりに書いてみることにした
ネタバレとかいろいろ気にせず書いてるので注意です

結論から言うと真っ直ぐなハッピーエンドだった

ネット界隈ではなんかすごくショックというか悲劇というか鬱展開とかそういう雰囲気だったので、まあそんな感じなんだろうなーっと斜に構えて見に行ったのだけど

ハッピーエンドじゃないか!!

って驚いた。
なぜ私がハッピーエンドって思うのか。

それは女神と悪魔の2つの愛の上に成り立っているが故に、女神と悪魔が共存できて、忘却と幸せという儚いバランスの上に、予定調和的に終わりと繰り返しが定期的に現れてはまた回り出すであろう世界ってのは結構理想的な世界じゃね。って思ったからなんだ。

ほむらが愛故に悪魔になることは、そんなに悪いことじゃないと思うのよ
悪魔=悪ってのはナンセンスというか短絡的だし
女神=善ってのもまた必ずしも成り立たないと思う。

実際今回の映画ではまどかはとてもカワイイけど同時に不気味さがなかったか。
私は結構彼女の笑顔とかが不気味だった怖かったよ。

まどか☆マギカ自体演出が凝っている割には、わかりやすいストーリの作品だけど
今回の映画はすごく真っ直ぐなストーリーだったし、良くも悪くも捻りのない分かりやすいお話だったって感想だ。
最初の頃は「あぁーなるほどビューティフル・ドリーマーね」って思っていたのだけど
そこは違って、夢や希望の話ではなく愛の話になっていた。

互いに一方通行な愛が衝突しないですれ違ってしまったが故の不幸な愛の悲劇とも、もちろん捉えられるんだけどね。
だけど、辛くても悲しくても叶わない愛は叶わないのだし―まどかに愛を受け入れて貰えそうにないのはかわいそうだけどさ
でも、一方でほむらは自分の愛を成就させるために一人で勝手に戦ってそれなりに願いと愛を成就させているし、これからも愛を貫くために戦うんだろうってのは普通のことなので、彼女は悲劇のヒロインじゃないよって思うのよ。
たとえいつか崩れて、受け入れられなくても我が愛を貫くってのは、つまり戦い続けるってわけで、戦い続けられる状況までもっていけた暁美ほむらはハッピーエンドを取り敢えずは迎えられたんだな―っと、やるなーって


最後のあたりでリボンをまどかに返してしまう彼女はいじらしいよね


あと私は、TVのまどかという一人の少女の犠牲の上に世界は少し救われたって終わりは最低だなって思ってたのだけど
その声を暁美ほむらが代弁してくれた気がしてスッキリした。
まどかーーテメーの犠牲の上に成り立つ幸せなんて間違っているんだよーってまどか神に一撃ぶちかました彼女の愛を私は尊いと思うよ。

女子高生の可愛さはどこにあるのだろうか

女子高生の可愛さとはどこにあるのだろうか。
電車の中や帰宅途中に女子高生や女子中学生をみかけてそんなことを考え始めた。ちょっとした変態である―いや違う誤解だ。
結論からいってしまえば

 女子高生の可愛さとは制服にある。
 だからセーラ服を脱がさないで♪という歌詞は圧倒的に正しいのだ。

 制服という「記号」がある―こういう文章を書く人たちが大嫌いだ。記号という魔法の言葉を使って語らなねばならない複雑なことを全て私は語れた!という気にさせるドラッグに溺れているヤク中だからだ。
 話が脱線してしまった。しかし制服というものほど記号という言葉と相性のいいものもないだろう。
制服は一目見て様々な情報を与える。警察官の制服や電車の運転手の制服、これらは様々な能力や権利や義務といったものを纏めあげてひと目で理解させる機能を持つ。まさに記号だ指標である。「火のないところに煙は立たない」の煙だ。
 煙をみれば、その元に火があることが分かるように、制服をみればその制服を着ている者の役割などなどが一様に明らかとされる。便利な道具だ。これを記号であると言わずになんといえよう。

 ただ今回の趣旨はそういうことを言いたかったわけじゃないんだ。
 趣旨は女子高生の可愛さとはどこにあるのだろうか、である。
 結論はそう制服にある。
しかしこれはいささか端折り過ぎだろう。答えを急かしてもいいことはない。

 さて、魅力は制服にあると書いたのだが、しかしかといって制服それ自体に魅力があるといえるのだろうかちょっと待って考えてみてほしい。もちろん制服それ自体が大好きな人はいるのだろうが、たとえば今は懐かしブルセラショップで制服を求めていた諸氏はそれでは制服それ自体に魅力を感じていたのだろうか。そうではないだろう、あれはうら若き女子高生が、女子高生が着ていたからこその制服であり、だからこそ数万円も払って買ったりしてしまうのだろう、それだけの価値があるとおもって飛び込んで匂いを嗅いだり保管したりしてしまうのだろう。
 そう、全員というわけではないが、ブルセラショップ愛好者もまた制服それ自体が好きというわけではないのであると断定してしまう。

 物自体、ただそれだけに欲情したり価値を認めているわけではないというのが女子高生の制服というものであろう。
それじゃあやっぱり女子高生それ自体に価値があろうかと問われると、いやちょっとそれは違うだろうと私は思うのだ。
たとえばある女子高生の女の子が日曜日に私服で出かけているのはかわいいだろうか、まー可愛い子もいるだろうがそれは女子高生としてかわいいというわけではないだろう。それはその子がかわいいということにほぼ終始するだけであろう。
 そうではない、今話しているのは女子高生のかわいさについてだ。ある女の子がかわいいかわいくないだの話をぐだぐだと展開したいわけではないのだとうことをどうか理解してほしい。可愛い子は制服を着ていなくても可愛いのだそれで全てなのだ。

 それではだ、制服それ自体が魅力的であるだろうが、制服それ自体がかわいいわけではなく、また中身の特定の女の子がかわいいかわいくないを問題とはしないだとしたら、魅力とは可愛さはどこにあるのだろうか。
 先ほど制服は記号だといった、確かに記号と見なすことも出来る。しかしより端的に言えば制服は女子高生という意味内容を導き出す取っ掛かりにすぎない。それはブランドに近いものである。しかしそれ以上に女子高生という概念は物語がある歴史があるハイパーブランドだ。

 それは例えばヨーロッパとか和とかオリエンタリズムに近いものだろう。女子高生というものには何か自分勝手なロマンと積み重ねられた物語がある。その女子高生という内容を一瞬にして喚起させるブランドロゴこそが制服なのである。
 女子高生はそのブランドロゴである制服を着ることによって女子高生となる。警察官が制服を着て警察官になるようにだ。
 女子高生達は女子高生という概念で武装して、着こむことによって可愛くなる。彼女たちは女子高生の奴隷になることによって主人公になる、魅力的に可愛くなる。女子高生のなかで女子高生達は女子高生となり輝き苦しむのだ。制服を着て女子高生達は女子高生と自分達の存在を約束されるのである。

 それでは女子高生の可愛さとはどこにあるのだろうか、それは女子高生という概念、物語などにあるということになってしまうのだろうか?
 バカを言っちゃぁいけねえよお前さん。女子高生がかわいいのは女子高生だからだ、っで許されるわけがないだろう。それではどこにあるっていうんだい?制服それ自体にも、女の子それ自体にも、女子高生って概念にもかわいさってのが無いんだとしたら、いったいお前さんはどこに女子高生の可愛さがあるっていいたいんだい?
 それはねお前、女子高生の可愛さってぇのは、制服を着ているってところにあるんだよ。
だけどよおまえ、女の子が制服を着てるってだけならエロいサービスのお店にいる女の子達だって女子高生の制服を着てるじゃないか!でもそのかわいさは女子高生の可愛さとは別物じゃねーかいこれは一体どういうことなんだ。
 それはねお前、女子高生の可愛さってぇのは、制服を脱がないところにあるからだよ。