インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

なぜ私は働いていて、こんなにも働きたくないのかについて―非強制的労働についてのメモ

あまりにも最近、ここ2ヶ月くらい働きたくなくて叫びだし泣きだしそうなので、なんでこんなにも働きたくないのか内省してみる。

私は他人から強制されるのが大嫌いだ。
また何か大きいものへの従属によって人生の意味や価値を授けられる・得られる陶酔することを侮蔑している。生きる意味を自分以外の何かに仮託することは危険だと経験から信じている。
しかしその一方で、私はなかば強制的に労働に従事している。もう10年以上働いてしまった。自分の意思としては出来る限り働きたくない。仕事だろうが労働だろうがしたくないのだが、労働という罪に仕事という悪に手を染めてしまっている。金の欲しさに*1。金と自由が欲しいという欲望は二律背反する概念なのだろうか。
なぜお金が欲しいのだろうか。なぜ金のために労働に身をやつしてしまっているのだろうか。私はお金のため以外には労働に意味も価値も意義も見いだせない。ただ金のためだけに労働をしているし仕事を選んでいる。無職だった当時に、初めて入った会社が微妙だったと危機感を覚えた際に、いかに効率的に出来る限り楽で福利厚生が熱くて沢山お金を得られないものか、という点だけに絞って仕事を選んで今の労働に従事している。このようにゴールを明確にしたためか年収は目標以上の想像していなかったとこまで来てしまったし、恐らくこのまま従事し役割を果たしていけば増えていくだろうという実感もある。また労働環境や社内の人間関係も不満はないわけではないが比較的良好な状態だと認めざるを得ない。
そんな状況にも関わらず、働きたくない。出来る限り働きたくない。なぜだろう、それが最近分からないので自分の考えについてまとめてみたい。
他人からしたら運よく恵まれた労働環境にあるのだろうが、あまりにも働きたくなくて恵まれているとは思えない。私は他人と自分を比較するのが以前の私と比べて苦手になってしまったんだなと思うー自我が肥大化しすぎたのか自分を守るための成れの果ての姿なのかは今はもう確かではない。いや、そうではない労働者としてすべての労働者は労働の刑に処された者であり、奴隷として資本主義の狗として首輪の豪華さと大きさを競う気持ちにはなれない。そう他者との比較では、私の働きたくなさについて説明できそうにない。

そもそも、なぜ働き始めたのかについて
 学生の頃にアルバイトを始めた理由は自由に使えるお金が欲しかったからだ。デート代カラオケ・ホテル代洋服代、つまり遊ぶ金が欲しかったからだ。労働をしたくて社会経験とかそういった類の理由からではなかったのは間違いないと自信をもって言葉にできる。
 なぜ就職したのか。色々とある。アカデミックな場所に居続けることに限界を感じて―今思えば覚悟が足りなかった―諦め挫折し卒業した。そうなれば一人食べていく必要があるので、生きていく必要性に駆られて就職した。この時はほかに選択肢がないというか、色々な選択肢を考えたけれど、狩猟採集時代の人間が肉や木の実を狩りに行かなければ死んでしまうように、生きていくのなら生活の糧を得る必要があるので、なんとか就職して金を得るため働きだした。
 だからアルバイトであっても就職した労働者としてであっても、働き始めたことは諦念と仕方のなさが大半を占めるけど強制的かといわれると、生存のためでもあり社会的な強制力・プレッシャーも相当にあるが―自発的と思わされつつも自発的に仕方がなく就職して納得して仕事に就いた。仕事に就いたばかりの頃は院卒無職の私からようやく一般的なレールに乗れたことに涙したことを覚えている。

ただ働き始めると人間とは私とは不思議なもので、働きたくなくなる。なぜ働きたくないかというとお金を得て買い物や旅行などの自由は拡大したけれど、そのための自由にできる時間が減った。職場の人間関係や業務にともなういろいろなストレス。これらが主な原因だろうか。特に休暇が次の労働のための休暇という手段となっているのが耐え難い。日曜日になると感じる焦燥感と絶望感が嫌だ。金曜日の夜に感じる解放感は悪いものではないのだけれど。働きたくない理由はいろいろあるだろうけれど、端的には自由の制限と業務上のストレスなんだろう。それが給料として支払われる対価としての報酬に見合っていないと感じているのだろうか、というとそういうわけではない*2
働く意味を失ったのかというと、生活に必要だしお金は必要なので、唯一にして絶対的な意味は失われていない。
そう、つまり私にとって私の意思において納得した働く意味であるお金と、業務内容や職場関連・業務関連に関わるストレスが、こんなにも働きたくない理由ではないんだ。やっぱり、そうだった。なんとなく、それには気づいていたけれど、考えながら思考と状況をまとめてみて明確になった。
ん??ということは、ただめんどうくさいだけ?

見過ごしていたけど、それはありうる。ただ、めんどうくさい、それだけかもしれない。いやとても納得できる。これを書いていてしっくりくる。実になじむ考え方だ。そう怠いんだ。
私は料理が好きだし美味しいものを食べるの好きだし珈琲豆を焙煎することによろこびを感じるけど、それと同時に作業自体は面倒くさいと思うときが、ある!!!!好きなことをやっていること、つまり非強制的な労働・作業である料理や珈琲豆焙煎であっても、めんどうくさいだりぃーって感じるのだから。特にクリティカルな理由を、格好つけた意味をわざわざ大げさに見出さなくとも、実はただハチャメチャ滅茶苦茶に面倒くさいし怠いし煩わしいのかもしれない。とりあえず、私ははたらきたくない月曜日の朝起きるのが涙が出てくるほど嫌だけど、めんどうくさいなーと思いつつも仕事はやめずに、できるかぎり楽して働いていきます。早期退職するにはどうしたらいいのか考え始めてもいいのかもしれないわね。
転職した会社からリストラにあって遮二無二なって再就職を二ヶ月で決めた半年ほど前の自分が冗談のように思えるのだが、しかし生活の糧を得る手段がないというのは、それはそれで恐ろしかったんだ。安定した収入がない、生活を続けていくのが困難になるかもという状態がこんなにも恐ろしいものなのかと驚いた。この恐怖を覚えてしまったので、ますます自営業とかやるのが怖くなってしまっているのに気づいた。

*1:金についての議論はまた別の機会にしたい

*2:いや、やっぱり休日が充実していないことも、主な理由かもしれないぞ!