インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

Twitterをやめて1年が経った

14年近くTwitterに張り付いていた人間が、Twitterをやめたらどうなるのか。
興味がある人がいるのか分からないが、タイトルの通りTwitterをやめて1年程度経過したので、私の実体験に即して書き留めてみた。

Twitterの話題についていけなくなった

Twitterという空間にいなくなるので、Twitterで騒がれている話題や価値観がどうでもよくなったといえば当然なのだけど、本当に彼らが何を言いたいのか、なんでそんなに自分の人生に関わらないことに執着して感情をむき出しにするのかますます分からなくなった。これが私にとっていいのか悪いのか判断は控えるけど、心底どーでもよくなった。というか、本当に話題がわからなくなった。Twitterからコンテンツに誘導されることもないし、話題に関心を振り回されることもなくなった。逆にBlurskyなどにXの話題を持ち込まれると嫌悪感がする。ここはXとは違う空間なので、持ち込まないでほしい。

Twitterをやめられた優越感に浸れる

もうXになってしまい、まだ残っている人は今更やめてもTwitterを卒業できないんだよね!と優越感に浸れるのは素直に嬉しい。人は他人と違う点に優越感を感じることがあるー少なくとも私はそういう人間だ。だから思い切って、ここがタイミングだ!と跳んでしまってよかった。
本当に、まだ東京で疲弊しているの?って言った人は心底気持ちよかったんだろうなーー気持ち悪い

Twitterという世界から逃れられた

Twitterにいる自分を醜く許せなくなってTwitterを辞めたのだけど、そのおかげでTwitter内の価値感・言論空間から自由になれたのは気持ちがいい、清々している。この簡単に捨てられて逃げだせたという成功体験は本当に気持ちよかった。
実際の社会だと、自分が置かれている価値や言論の世界から抜け出すことはとても難しいけれど、Twitterを絶対に見ないいようにすると、そこの価値観から完全に開放されたという事実はとても気持ちのいいものだった。
そして、そこから離れて自分を見つめなおして、オジサンながら新しいことにチャレンジしたり、新しい趣味や生活を始めることができた。
これは即ちTwitterをやめたから、新しいことにチャレンジしたわけではないのかもしれない。けれど、あそこから離れて生活とワイフと自分との関係性を再構築する一つの切欠にはなったのかなと思っている。
ニワトリかタマゴかだけれど、私の人生の節目・転換点が23年には訪れていたみたいで、いいタイミングで辞めることができたなとはつくづく実感している。なにごとにも波というのはあると言われるけれど、イーロン・マスクに買収される前後くらいからTwitterに絶望的な居心地の悪さを感じていたのもあり、もう辞め時だよなという波に乗ってしまえたのは、私にとって正しい判断だった。
twitterにおける、私にとってどうでもいい議論に苛まれ、私は自律できなくなってしまった。そんなのは我慢ができないので、Twitterにおける善や正義に惑わされないよう逃げ出して正解だったと今は思う。

こんなことを書いていて、Twitterで初めて居心地の悪さを感じたのは「ヒウィッヒヒー」というよく分からない言葉が流行ったときだったと思い出した。はじめてTwitterの中に群衆というか大きな流れを感じてしまった。集団からの同調要請・同調圧力というと過敏な反応かもしれないけど、あの時はじめてTwitterで自分の外にある集団の流れを感じて、それに乗っている奴らも含めて気持ち悪いとおもった。その居心地の悪さが、もう我慢できないレベルに達したというのはある。居心地の悪さと今まで築いた関係を天秤にかけてつり合いが取れなくなった。
私がTwitterを始めたころの、個人個人が別々のバラバラで自分の趣味や意見を好き勝手にポストしている流れが好きだった。好き勝手いって、勝手に反応があったりなかったり、そんなつかず離れずの空間が居心地がよかったのだけど、その空間をTwitterで維持するのが難しくなったというのが、私的には、なにかカッコつけた理由としては、しっくりくる。
個人の良心・個人の価値観・個人の感性を私は、とても大切にしたい、それを個人間で戦わせるのを大切にしたいのだけど、それがなにか得体のしれない集団のセンスも知性も理性の欠片もないゴミのような集団VS集団の同調要請が無視するのも難しくなったというのがある。逆に今はマストドンではフォロワーが好き勝手に好きなことをつぶやいていて、私も特に気にせず流し見してたまに面白がる空間があって、居心地の良さを感じている。

インターネット人間関係はそんなに変わらなかった

これはそうで、完全に関係が切れてしまった方もいるけど、意外とインターネット上で仲良くしている人とは、また別のどこかインターネット上で互いに存在を確認したり、飯を食べたりしている。これは意外だった、驚きだ。Twitterを辞める前は、このTwitterで作られた関係があるからこそ、それがしがらみとなってTwitterから抜け出せないでいたけれど、やめてみても関係は続いているし、ありがたいことに別のインターネット選択肢があるから。Twitterの代替なんていくらでもあるから、君もやめても大丈夫だよって気軽にいえるようになった。

新しい趣味や配信先が増えた

恥ずかしながらBlogにも載せているけど、最近ワイフとPodcastを録るようになった。それ以外でもTwitterに居たころよりブログで投稿するようになって、果ては文フリでコピ本を刷るまでになった。本当に驚いている。おそらくTwitterで毎日呟いていたら、これは出来なかったかもしれない。Twitterをしていたら、こんな可能性は拓かなかっただろう。
私は間違いなく自分のことを外に出したい性分のようで、さらに職場の人間とは労働関係以上の関係は結びたくない。なので、自分のことをさらけ出す場所としてTwitterは本当に気軽に雑にウンコできる場所だったけれど、そのトイレが使えなくなったので、別の場所と方法を使うようになったのは、私にとっては心から楽しいことだ。
なによりも自分自身にとって何が大切なことで何が価値あることなのかについて、重要な問題は何かについて、以前より意識的に考える時間が増えた。かけがえのない自分との時間をより増えた気がする。

さいごに

Twitterという場所から供給される不特定多数の人間からの承認や評価に価値を感じなくなるほど枯れたオジサンになったのも、Twitterを抜け出せた要因かもしれない。得体のしれない1,000人に対してつぶやくよりも、もしかしたら届くかもしれない5人10人に対して発信したほうが楽しいかもしれない、少なくとも今の私にはそちらの方が価値あるものだと思えるようになった。
だから、私自身のためにBlogは書き続けるかもだし、ワイフとPodcastを楽しくやっていけたらなと思っている。そして珈琲はこれからも焙煎し続けたい。
Twitterは、これがなければ出会っていなかっただろう人との繋がりを作ってくれた大切な思い出の場所だった。本当に当時はかけがえのない居場所だった。でも、いつまでも人は同じ場所にはいられない、私もみんなも変わってしまうから、すべては思い出になる。Twitterも思い出になる時が来たんだ。ありがとうTwitter、バイバイ。
sebastianus.hatenablog.com