インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

『布団の中から蜂起せよ』の感想 - あなたも生き延びて自分の幸福を求めて欲しい -

はじめに
この本は、この現代社会に生まれ落ちて生きづらさを感じている人々に対する、社会がお仕着せてきた価値に対して着心地の悪さを感じている者に対するアジテーション、励ましの言葉、生きて欲しいという言葉だった。この点に対して、私も今の生きづらさを抱える全ての人に対して、無責任にも「生きのびて欲しい」と著者同様にいいたい。残酷なまでに脂肪分たっぷり生クリームみたいな言葉だけど、私もみんなに生きのびて欲しいと思う。
この著者は、この本は多くの批判にさらされている。それらをざっと読んだところ、その批判は悲しいかな真っ当だと思う節がある。私が最初この本を読んだ際にも、そのような罵倒があふれる読書メモを残している。ただ、これからこの『布団の中から蜂起せよ』の感想を書くのに、それら批判に乗じても楽しくないだろうという観点から述べてみたい。

賛同できる点
この本の、著者のいいところは「生き抜いて欲しい」という無責任な願いから発して、生き延びることは抵抗であり、意識一つで我々は連帯できる仲間なんだ、一人じゃない布団の中からでも共闘できると意識の上での連帯を呼び掛けるところだ。
この社会の中で生きていることに苦しんで、社会との摩擦の中ですり潰されそうになっても生き延びていること、それ自体を抵抗だと称賛する。そして、君に優しくない理不尽だらけの社会に対して何かおかしいと意識を持ちつつ生きのびること、それはたとえ布団の中で拳を震わせているだけでも、それは蜂起になる。権力・既存の幸福・社会に対して意志を持ち生きているだけで蜂起になるんだ!と著者は勇気づける。そして、それだけの意識を共有できるだけで我々は共闘していると、背中を支えあう仲間だと弱きものを包摂する。

動けなくても、意志一つで参加できる。誰でも簡単な蜂起という手軽さによって仲間に引き込むのは上手い方法だ。
これはいいと思う。まず生き延びること死なないことを目的として、これは戦いなんだ。おまえは戦っているんだ。この苦しい最悪な世界の中で、ただ生きているこれだけでもう戦いなんだ。私たちと一緒だよ。私と共闘している。死なないでいるだけで連帯できているという言葉は、どこまでも優しい。
そして上手い。この一連の弱さ生きづらさを社会の責任にして、この社会のクソに対する抵抗は蜂起は、まず社会から排除されている者たちが死なずに生き残ること、そしてその殺意を自分にではなく社会の既存の価値観(正常・幸福)を破壊することに向けろと扇動する。
そしてこの一連の活動ー立ち上がれないほどの力なきものが、それでも生きのこり間違ったことに敵意を向けること、既存の幸福を疑うことをアナーカフェミニズムとして宣言しピン止めし、生き残るための方法としてのアナキズムを提唱したのは、優しくアナキズムに弱者をオルグする巧みなやり方だ。アナキズムの良くも悪くも曖昧なことを称賛し上手いこと使ったと感心する。

生き抜いて欲しい。生き抜くには希望が必要だ。という部分について私は手放しに賛同したい。本当にその通りだ。生きるのは大変だ。涙と鼻水と布団の饐えた匂いにまみれながら、それでも死なないでいるのは本当に強いことだ大変なことだ。私も君にしなないでいてほしい。この過酷な社会の中で生きのびているだけで素晴らしく価値があると私も賛同する。

アナキズムの個所について
アナキズムとは不勉強な私の理解では、既存の価値の転換を目的としている。既存の価値とはいろいろあるが、たとえば書くこと言葉で語ることにおいては、論理性であったり誠実であったり深い知識や検証にもとづいた考察・推察などがよいものとされる。または語り合いなどにもアナキズムは価値を置くが、そこでも現代では暴力的感情的なものよりも理性的で論理的で相手の言葉にも耳を傾ける寛容さといった大人であることが求められる。

この著者だけでなく、アナキズムはこれら大人で論理的という物わかりの良いものに対して一部の論者は攻撃的だ。
そうではなく非論理的で感情的で扇動的で暴力的で他者の声に聞く耳を持たない力強さを、そして曖昧さに価値を置く。それが現代の価値に対する抵抗になるからだ。これがアナキズムの採用する一つの不誠実で効果的な理論武装だ。私たちは曖昧で暴力的で飛躍的で自由でいいとする。そういう点でアナキズムはとても魅力的な思想だ。自由で曖昧である故に危うさ脆さがある。
この著者もまた、現代社会やアカデミアに様々な既存の秩序を安定させているシステムに対して生きづらさを感じているからアナキズムに傾倒したのかもしれない。だからと擁護するわけでもないのだが、この本における曖昧さ暴力性はこの著者だけの過失ではない。それはアナキズムがもつ悪癖・過失・もしくは武器だからだ。
アナキズムを私は好かない。だけどその反対に著者はアナキズムという思想に、その考え方にとても救われたのかと思うーこれは現代の社会や大学での価値とは正反対であることを肯定する思想だからだー私の勝手な妄想だが。

この本の中でアナキズムとして評価できる点がある。それは「その場限りの冒険主義・個人の大胆で華麗な演出・反理性主義のポストモダニズムと奇妙にもよく似た、理論に対する嫌悪・理論的一貫性の無さの賛美(多元論)・想像力、願望、恍惚に対する本質的に反政治的で反組織的なコミットメント・日常生活の極度に自己指向的な魔術化。」といった最近のアナキズムの悪しき傾向が見て取れる一方で、この本では、そういった個人主義的な「ライフスタイル=アナキズム」的なものを超克していこうという意思があるとこらだ。既存価値とうまく個人の周波数を合わせる、既存のレールうまく歩調を合わせ既存の価値と折り合いをつけて大人として生きていくという理解ある態度に対しても唾を吐きかける点について好感が持てる。

著者は序文で、個人的な幸福を追求することは「マジでなにもないよ」と恫喝する。そんな行動に意味はないと脅す。この恫喝はあまりに子供っぽく、この言葉に私は全く賛同できない。ただ攻撃的な言葉で反論したい感情をぐっと押し殺して言えば、この恫喝は近年の欧米の個人主義的な、また日本の既得権益文化左翼のようなライフスタイルアナキズムに対する抵抗の声と理解できる。著者はこの本で個人主義ではなく、共同体主義的なアナキズムへの賛同と連帯を呼び掛けている。この点を私は自分の思想とは別として評価したい。

私は当初、この本のタイトルを読んだだけで、アナルカフェミニズムと大きな言葉を弱いものが使っているが結局のところ個人主義的な「社会的自由ではなく私的自律」を謳うものだろうと偏見だけを持っていたことを、ここに謝罪したい。

ただ、社会的自由を志して個人のためだけではく誰かのため社会のために生きるのは難しいとオジサンからのありきたりな言葉を続けることを許してほしい。
おそらく個人ではなく「社会のため、みんなのため」という言葉からして失敗しているし、個人と社会を意識の中で常識の中で当然のように切り離して考えている全くの別物として考えさせられているという点で、すでに共同体主義は敗北していると私は思っているのだけど、こういった敗北の中で、そして個人が幸福を追求するために制度化・システム化されている社会と経済の中で、自分のため以外のだれか道に倒れている浮浪者や不正義に苦しんでいる外国人のため時間や労力を割くのはとても大変で苦しみと絶望を受ける覚悟がいるだろう。想像もできない覚悟だ。
私の幸福という幻想と信仰がこれほどまでに強くなっている現代の情報・価値・ライフスタイル共有化社会のなかで、他の誰かのために生きようとすると、自分の存在の生存の価値を他者やほかの大きいものに仮託することに陥りやすく、最悪の場合は著者がもっとも望んでいない殺意を自分に向けることにもなりかねない。「他人のために、少しでもこの世をマシな方向に動かそう」という曖昧で大きなものへ自分の人生を仮託するのは危険だ。私がそうだった。その後悔がある。

個人主義的な現代のグローバル資本主義的な競争社会の価値を変える必要があるというのは全くもって正しい。途方もない大きな戦いだが、それが正しい視点だろう。私はー著者が語るように個人が幸福を追求することを否定するのではなくー「個人の幸せとは何か」についての価値を変えていく必要があると考える。しかしそれは著者が語るように他人のためではなく、あくまで自分のためにあるべきと私は思う。この点で、私は著者には賛同できない。
人は、という大きい言葉を使うが、人は個人はなにかの行いに対して対価を求める。行為に対する報酬として貨幣であったり称賛であったり、コミュニケーションにおいては何が価値であるかという価値のメディアが介在される。この価値を転換していく戦いこそが必要なのだと、この本は読者にいいたいのだと好意的に理解した。

いきのびてほしい。この願いは誠実だ。ただ生き延びるというのは実に個人的なことでもある。孤独な戦いだ。簡単に個人主義的な問題にされてしまう。おまえがダメだったから社会に出れなかった労働で働けないのはお前の責任だとなってしまうだろう。この個人主義的な価値観に対して、この本は、生き延びることは戦いであり、何か間違っていると疑問や不満の意識を持ったまま布団の中で生き続けることは蜂起であり、生き延びることで蜂起しているという意志で我々は連帯できる仲間なんだと叫ぶこの著者が採用したアナキズムの方法を私は評価したい。

ただ連帯感や生き延びることに価値を認め鼓舞するのはいいのだが、個々人が自分自身の生活の中で自分の戦いを抵抗をすることで共同戦線を張れると、意識で魂で繋がれるといった緩い繋がりにとどまってしまった点は少し残念だ。孤独感を感じている布団から出れない弱いものへのアジテーションであり、そんなわれらへのオルグであるから、この点は仕方ないのだろうかと疑問が残る。個々人に生き延びて欲しいという願い、生き延びることは抵抗だと謳い讃えながら、ただの願いだけで終わってしまってるのではないかと思うのは穿った見方だろうか。求めすぎであろうか。
それでは弱き人はどうやってつらい社会で生き延びたらいいのかが、すっぽりと無責任にも語られなかったことは残念だ。生きて欲しいという本気の願いはあっても、あなたの生存を願っている人間がいるとここで叫んでいるなら、それでも結局のところそんな弱い個人は各々が孤独に現実と戦っていくしかないことを誤魔化さず語るべきだと思う。

この本の懸念点
読み終わった感想のまとめとし、私はこの本にも著者にも賛同できない。
この本が依るところの大きな悪、大きな敵=お前たちが、曖昧で都合のいい悪で杜撰すぎて怖い。
暴力が欲しいという暴力への憧れ、力に対する意志に賛同できない。
他人のためにという著者を信用できない。

最初はこの本が語ることの論理的な飛躍や破綻について語ろうと思ったが、それよりも怖いところは著者の大きな力、曖昧で大きなものへの意志を感じてしまったからだ。著者は大きな悪を大きな敵を妄想して作り出してしまっている。そしてそれに対する殺意を生きる原動力としているように、どうしても読み取れてしまうのだー抵抗への意志を持って生きることが革命と蜂起なのだから、それはそうなのかもしれないが。
著者の暴力への憧れは、著者が物理的な暴力による力を持たないからこそ、弱者だからという理由で諦められている節がある。もちろん言葉では、そうではないとエクスキューズがあるが、もし仮に著者が大きな力を権威と正当性に裏打ちされた暴力を手にした場合、どうするのか。著者が敵とみなした殺意を向ける「お前たち」に使わないでいられるのかと想像したとき、そこに不安を強く感じた。虐げられた者たちが暴力を取り戻したとき、その暴力をだれにどう使うのだろう。それは著者が書いている通り、「お前たち」を暴力でぶち壊すことに使われるのではないかと思わずにはいられない。それがかなしい。
著者は、どうしようもなく弱き力のものを優しく理解ある言葉でオルグするが、その一方で弱き者を生かすために使われるべき殺意をどこに向けるのか恐怖がある。この恐ろしさ、他者を害するのではないかという疑念がある限り「布団の中から蜂起せよ」という著者の言葉には賛同できない。なぜなら私のようなお前たち(オジサン)はこのような殺意に晒され世が世なら理不尽に虐殺された側だからだ。殺意を向けられた者はその殺意に対してどう反応するだろうか。殺意を向けてきた相手に対して寛容でいられるほどの聖人は少ないだろうし、アナキズムはそんな寛容を是とはしないだろう。

結び
生きぬいて欲しい。死なないで欲しい、それが蜂起だといいながら、もう一方の口では一般的な「しあわせ」を否定し、この社会をゴミカスといい殺意を向ける。ここに私は面食らってしまった。ただ一方で私が本当に死にそうだった頃のことを思い出すと、そして社会を変えたいがどうしようもないと思うのならば、既存の価値観に対して殺意を向けるのは誤った認識ではない。仕方がないと思ってしまう。社会が受け入れてくれないのなら、私を否定するのならば、私も社会を否定するしかないだろう。著者はその価値観の転換を個人的な問題を絡めつつも、個人主義とライフスタイルの問題に妥協させる物わかりの「いい子」になるのではなく、世界を諦めて受け入れるのではなく、体制への殺意・既存の価値の転換・社会への参画・アナキズムへの連帯へと結びつける方法は正しいと思う。なんちゃらアナキズムよりも、筋が通った共同体主義を志向したアナキズムと好意的に解釈したい。

ただ一方で最後にありきたりなつまらない言葉を許して頂けるなら、
世界を変えるための問題を白日の下にさらすためための作業に対して正確さ、慎重さ、戦略性が求められていると著者は語っているが、それについてこの本は失敗しているのは読んでいただければわかる。そこはとても残念でならないし、多くの方がこの点に憤りを隠せないのは私もまた理解できる。あまりに殺意を向ける敵に対する理解が曖昧で、それこそTwitterやワイドショーレベルの杜撰さがある。これでは、ただうまくいかない社会に対する不満と殺意をもって正当化された暴力を向ける相手をただ自分勝手に都合のいいように作り出しているに過ぎない、アナキズムという価値を自分の暴力性を正当化するための道具として利用しているだけと批判されても、それは仕方がない。自分の人生がうまくいかないのは社会が不寛容でゴミクズなんだと、喚いているだけの甘えた叫びと否定的で不理解な目を向けられてしまうのは、本当に残念だと思う。このままでは実際、このエッセイにはこの点に対する誠実さ説得力に具体性がかけていて、実に曖昧な言葉で強い言葉と概念に頼り誤魔化している不誠実な言葉に聞こえてしまうのだ。これくらいに言葉をとどめるが、そこが本当に残念でならなかった。

私は大学院博士課程前期でダメになり、就活はことごどく失敗したどうしようもない状態でも死ななかったからこそ、今がこうしてある。私は現代の価値とレールに幾ばくか脱線したが幸運にも転がって倒れてトロッコに乗っかることができた。この乗っかれた自分に違和感を覚えつつ私の幸福のためなんとか生き抜いた生存がある。なんとか生き抜いて、絶望したアカデミア的な匂いのするロマンあふれるアナキズムという概念に触れられるくらいには心に余裕を得ることができた。この余裕はとても大切だ。労働に囚われつつも、あそびの余裕があれば戦える。そこには一握りの自由と幸福が必要だ。
今を未来を生きるのが本当につらくて苦しくて死にたくなる人に、それでも生きて欲しい私も願おう。この著者の言葉には諸手を挙げて賛同したい。私は生き延びて違和感を覚えつつも日々生きている幸せを噛みしめている。だから生きのびるため、生存するために自分の幸福を個人の幸福を求めることは何も間違っていないと思う。この点で著者とは絶対に分かり合えないだろう。

最後にアナキズムについて読書するにあたって、友人であるbemyu_h君に感謝したい。彼のブログや彼が紹介してくれた文献などは、この本を読むにあたって大変参考になった。ありがとう。

参考資料
『くらしのアナキズム』松村圭一郎
『サボる哲学』栗原康
マルクスバクーニン --社会主義無政府主義--』大杉栄
『労働廃絶論』ボブ・ブラック
『What We Want. An Anarcha-feminist Perspective on Feminism』
『病理としての平和主義 米国の疑似プラクシスに関するノート』ワード=チャーチル
『社会的アナキズムかライフスタイル=アナキズムか』マレイ・ブクチン