インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

Twitterをやめた

数日前にTwitterをやめました。*1
2008年5月に登録して実働し始めたのは9月くらいと記憶しているけど、14年間ほとんど毎日なにかを呟いていた。人生の三分の一以上の時をTwitterと共に過ごした。
まちがいなく私の居場所だった。でも、この場所をもう思い出にしてしまってもいいかなと思った。卒業ですよ、春ですし。

いつかこのTwitterもなくなって、どこかまた別のところにーmixiからTwitterに移動したようにーいくよねなんて、12年前からフォロワーと話していたけれど、想像していた以上にTwitterは長引いたし拡大した。
それで、Twitterが続いているからって、このままここに居続けるのはどうなんだろうかなと。なくならないからって、居心地がいいからって、それで長く居続けてしまうのもなー-と冬の朝の布団の中でもにゃもにゃするように、まごついていた。たぶん、ほかの人も似たようなところはあるんじゃないか。

Twitterはすごい楽で、どんなに落ち込んでいて死にたくなってご飯がのどを通らなくなっていても「しにたい」とか「むかつく」とか「セックスしたい」とかを呟ける空間だった。ほかの人もそれを許してくれている空間だったとおもう。
それがなくなったから、ヌクモリティがなくなったから居なくなるの?と聞かれると、そうでもない気がする。ここに居すぎて、関係もできたことによって思ったように言葉を選ばず呟けなくなったなというのは本当のことだけど、それはいいことでもある。

それじゃあなんでやめるんですか?と自分に聞いてみる。
どんなに気持ちよくても温泉にずっとつかっているとのぼせちゃうしおなかも減る
どんなにぬくぬくしていても、ずっと布団の中にいると腰が痛くなるしトイレにもいきたくなる。
どんなにTwitterが労働が終わった後の何のやる気も体力もない私にもなにか発言させてくれる優しい空間であって、やっぱり居続けるとなんかあるんじゃないかな、別にどこかほかの場所にふらっと移動してもいいんじゃないかなと思った。
たぶん、変化を求めていた。
もしかしたら私がもう変わっていてTwitterのアカウントの着心地が悪くなったのかもしれない。どっちもだろう

Twitterは自分のなんてことない思ったことや考えたことを誰かに気軽に読んでもらえる受け取ってもらえる反発してもらえることが本当に楽しかった。
それがTwitterをやめてどうなるのかちょっと怖くて、ブログでも書こうかどこへ行こうかと手をまごつかせています

墓標

*1:アカウントはまだ消してません。どうするかは悩んでいるけど墓標として残しておくかなー--んー-