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異質と同質2――都市と社会解体への疑問

 社会学には近代化または都市化によって個人の阻害・孤独化や社会の解体が生じるという一説が未だに強い影響力をもっている。有名なアーバニズム論などがそれであり、近代はこのアーバニズムが都市に限らず地方にまで行き渡っているとワースは論じる。

 都市社会学やワースに限らず、近代化によって親族や地縁・血縁といった一次的関係が薄れ、無関心・孤独といった二次的関係が増すことによって社会のアノミーが増大するといった説は当然のこととして受け入れられ、もはや問うまでもない前提として扱われていたりする。

 今回はこのことを問題として扱ってみたい。つまり近代化や都市化によってアノミーまたは社会不安などは増大したことによって個人は阻害され孤独になっていったのだろうかと問題提起し、近代化・都市化はアノミーを増大させ、そして社会解体が生じるという前提は妥当かどうか問うてみたい。もしくは、流れによっては近代化・都市化しても人々のコミュニティは十分に機能していることを明らかとして対抗としたい。

「典型的なワースによる都市とアノミー論」

 都市化によって人間の結合様式はどう変化したのだろうか。アーバニズムとは都市に特有な生活形態・様式である*1。ワースは人口密度や異質性が高く、コミュニティの規模が大きくあればそれだけアーバニズムの特徴が見いだせるとする。

 この異質性は近代と近代以前を分ける重要な特徴である。往々にして社会学においては、近代以前は同質性が高く近代は異質性が高いことが特徴とされている。

 このように人口が多く異質性が高い都市においては、「親族、隣人の結合、そして共通の民俗的伝統のもとで何世代も一緒に暮らすことから生じる感情は、欠如するか、せいぜい相対的に弱くなる。そして競争と公式的統制のメカニズムが、民俗社会をまとめるのに頼りにされていた連帯性の結合に取って代わる。」(ワース)*2とみなされる。人が増えると、それだけ深く知り合いになるのが難しくなり、多数の組織やコミュニティに同時に属することになり人間関係の高度な分節化が生じる。

ワースのアーバニズム論を要約すると以下のようになる。

 都市での人間同士の接触は、非個人的であり、表面的で、一時的で、分節的である。また、都会人が自分たちの関係のなかで表明する控えめな態度、無関心、そして歓楽に飽きた態度は、他者による個人的要求と期待に対する免疫装置であるとみなすことができるかもしれない。

 都市的社会関係の表面性、匿名性、一時性は、また、概して世間ずれと合理性が都会人の特質とされることを分かりやすいものにする。われわれの知人は、われわれにとって功利的な関係となりがちである。それは、われわれの生活のなかで各自が果たす役割が、圧倒的にわれわれ自身の目的達成のための手段とみなされるという意味である。

 一方において個人は、親密な集団の個人的・情緒的統制からある程度解放され自由を獲得するが、他方において、自発的な自己表現、モラール、統合された社会に生活することにともなう参加の感覚を失う。このことは、本質的に、デュルケムが技術的社会における社会解体の多様な形態を説明しようとして指摘したアノミー状態すなわち社会的真空状態を構成する。

 (中略)感情的・情緒的紐帯をもたない諸個人が近接して生活し、ともに働くことは、競争、出世、相互搾取の精神を呼び起こす。無責任と潜在的な無秩序に対抗するために、公的な統制が制定される。

 都市的生活様式の顕著な特徴は、社会学的には、第二次的接触が第一次的接触に取って代わり、親族結合が弱体化し、家族は、その最も特徴的な歴史的機能のいくつかを剥奪され家族の社会的意義が減少し、近隣社会が消滅して、社会的連帯の伝統的基礎が掘り崩されることである。

 大雑把にまとめれば、都市化によって個人は感情的・情緒的紐帯をもたなくなり、人間関係は功利主義的な目的を満たす手段が主となる。個人の自由度は増大するのだが地域社会との結びつきは弱くなり、また家族の絆・機能は弱体化して社会的連帯は基盤を失う、これらのことによって無秩序は増し公的統制の必要性が都市や近代には増大するのである。これはデュルケムの語ったアノミー状態のことであり、「こうした環境のもとでは、個人的解体、精神異常、自殺、非行、犯罪、汚職、無秩序は、村落コミュニティよりも都市コミュニティで広くいきわたっていると予想される」(ワース)と考えられるのでる。

 以上が伝統的で代表的な都市論・近代化論といえる。それでは、果たして今日このような都市論は現代社会・都市に妥当するのであろうか。前回の記事の主題であった差異と同質性がここでも重要な鍵となる。今問題としている都市論においても差異性・異質性の増大によって自然的な社会秩序は不安定となり、公的な統制が必要という展開になっていたのは明らかである*3

「フィッシャーなどによるワースの批判」

 

 このワースのアーバニズム論*4に対して一方、ワース以後の都市社会学者であるフィッシャーは、都市生活に浸透している「非通念性」」(逸脱や発明など)をいかに説明できるかに着目し、ワースとは異なるアプローチをする。フィッシャーによれば、ワースのアーバニズム論の主要な帰結は、社会解体と個人の疎外である。フィッシャーの狙いはこの様なことが生じる根拠としてのアーバニズムの社会的効果は如何ほどのものかを明らかにするところにある。

 私が提出しようとする理論は、簡潔に言うなら、都市の規模と密度には独立した社会的効果があり、そのなかにはワースが逸脱と解体として記述した効果も含まれるというものである。しかしながら、こうした社会的効果をみちびく諸過程は、ワースが仮説として呈示した過程とはまったく異なっている。都市において「逸脱と解体」の発生率が高いことは、疎外、匿名性、非人格性のような要因によって説明されるのではなく、活気ある非通念的な下位文化を維持するのに十分な大量の人びとの集まり、すなわち「臨界量」によって説明される。「逸脱」と呼ばれるようになるものは、こうした下位文化が行動に表れたものである。

ワースがいうように都市には逸脱*5が見受けられる。しかしその発生はネガティブな意味の疎外、匿名性、非人格性といった要因によってではなく、下位文化が豊かになるために生じるとフィッシャーは考えるのである。

都市化によって「個人の疎外、社会のアノミー、そして「解体し」「非伝統的」な「逸脱」行動の蔓延」といった仮説はワース以後の様々な研究者によって疑問を投げかけられた。端的に言えば、都市においても第一次的な関係は存在し、豊かな紐帯やネットワークが機能しているという反論である*6

 さらに加えるならば、現時点では「都市が疎外やアノミーを生みだすという仮説を確証する証拠はほとんどない」(Gulick 1973;Fischer 1972, 1973; Wellman et al. 1973)。

しかし確かに、都市において村落居住者よりも、一般社会のもつ中心的および/あるいは伝統的な規範に違背するような行動をとることが多い。これらに共通するのは、社会において優勢な規範に違背しているということである。フィッシャーは、こうした行動や信念を示すのに「非通念性」(≒非伝統的)という言葉を用いる。

 つまりフィッシャーは都市においてワースが言うように、個人の疎外・社会のアノミーの増大などによる社会の解体の末に、逸脱が発生するのではない。都市において下位文化が豊かになるが故に逸脱は生じるとするのである。

 

 都市においては都市度が高いほど下位文化は強化される。これは自集団の規準をより強く意識するようになり、他の下位文化つまり文化が異なるものとの対立が生じ、そのことによってまた自己の文化の価値を強く抱くようになる。「都市移住者にとって、独特の異国風の行動との出会いは、自分たちの固有の文化をますます自己意識的に堅持させるようになる」(フィッシャー)*7

フィッシャーは

 社会解体は都市において常に生じる。しかしその要因としてワースがあげるようなアーバニズム―疎外、孤立、非人格性、皮相性、ストレス、緊張、不安、人間性の剥奪―は必要としない。

 大都市は市民が共通の「社会的世界」をもつことによって統合されているわけでもなければ、アノミー的な「大衆社会」のフォーマルな手段によって統合されているわけでもないということである。それなら、都市はどのように統合されているのであろうか。ある程度までは、都市は統合されていない。つまり、大きなコミュニティでは、小さなコミュニティよりも、価値の合意は存在しにくい。満場一致というよりは、「百家争鳴」の状況にある。しかしながら、だからといって疎外され無秩序になることを意味するものではない。

むしろ、かれらは、村落の人びとと同様に、持続的で、精神的にサポーティブで抑制的な下位文化のなかで生活している。都市においては、こうした下位文化が、しばしば〔村落よりも〕ずっと非通念的である。

 

と結論づける。

 つまり都市は非近代的な(都合の良い)イメージとしての村落のようには統合していないのは確かである。しかし、それはワースの都市論のように、人間が疎外されたり情緒的な相互扶助が欠如しているからではない。都市化とアノミーの関連性を裏付ける証拠もない。都市において解体・逸脱が見られるのは、下位文化が豊かになるからである。そして下位文化はお互い対立したり影響し合いながら持続的なコミュニケーションを交わしており、下位文化の中では―時に下位文化同士も―助けあって生きているのである。ただ都市は、中心的な伝統的な価値が相対的に弱く、それ以外の様々な価値が存在する故に一見無秩序に見られてしまうだけなのである。

まとめよう。近代化や都市化によって同質性は失われたという前提に立脚し、その事態をもってして社会が解体されたとするのは誤りである。また確かに、都市社会には逸脱が多く見られる。それは伝統的な共通の価値が欠如するからであるとワースによって主張された。それは正しいといえる。都市においては伝統的または共通の価値合意の達成が困難となっている。しかしだからといって、ワースが仮定したような人々の連帯性の欠如などによって無秩序化するわけではないのである。

 都市においても連帯性や家族や友人の絆は存在しており相互扶助によって支えあって生きているのが既に確認されている。ただ、都市においては下位文化が豊かになる故に、伝統的・中心的な価値からの逸脱が多くみられるのである。そしてこの共通が少ない、価値合意の困難な統合もしていない都市の人々はそれでも秩序だって支えあって―イメージ上の村落の人々と同様に―生活しているのである。都市は多様性を増大させるが、しかし同質性がそれ程なくとも現に秩序は維持され扶助しあって生活を送っているのである。都市において異質性が高いことが連帯性が損なわれ社会解体と個人の疎外が生じる理由にはならないのである。

追記
 とても素朴な考えだが、隣人の顔を知らないことはそれ程問題なのだろうか。3.11の日、私の近所では普段交流のない人たちが少ないながらも情報を共有したり助けあったりしていた。顔の知らないネット上の人々が励まし合っていた。もちろん地縁や地域コミュニティは大切なものであることに違いはない、しかし近代化・個人化・都市化した今日では、以前のような価値合意に達することはほとんどないだろう。つまり地縁の復活を謳ってもあまり効果的ではないのではないか。それよりも、地縁や地域の以前のような紐帯が衰退しても、問題のないコミュニティやネットワークのあり方を模索し支援していくほうが効果的であり重要なのではないかと私は考える。

*1:都市の中心的な問題は「大量の異質的な諸個人からなる、相対的に永続的で密度の高い居住地に典型的に見られる社会的行為と社会的組織諸形態を発見することである」

*2:都市化は公的統制すなわち行政国家化を必要とするともいえるだろう。

*3:社会を安定にするには共通の何かアイデンティティなどが必要とは、ここではワースは論じていない

*4:例えばワース以前の社会学者であるジンメルは、近代化によって個人はなくてはならない存在になったと考えている。小さな社会では、個性がいやでも分かってしまい、必然的にもっと暖かい基調の行動、たんなる奉仕とお返しの差引勘定を超えた行動を生み出しす。一方大都市では匿名性が高いために双方の関心は無慈悲な即物的な資本主義的なものに支配される。大都市は、生活をとりまく対立した流れ(束縛による無意味化からの開放つまり自由と、その自由故に普遍的人間存在という価値を捨て去り、個の独自性や代替不可能性を求める態度との対立)が、たがいに同等の権利で結びつくだけでなく、それぞれ花開くような偉大な歴史的構成体として己の姿を現すのです。つまりジンメルは都市は伝統社会を破壊し自由を拡大させたが、その帰結を否定的には見ていないことが分かる。社会的解離 (Dissoziierung)に見える大都市の生活様式は じつは 社会形成の基本形式 (elementaren Sozialisierungsformen)のひとつにすぎないとジンメルはみなしていた。

*5:社会や集団の規範に反する現象、社会システムのもつ規範的な規則、理解あるいは期待を侵犯する行動である」(Cohen 1968, p.148

*6:これらの批判はワースの生態学的な要因によって逸脱が生じるのではなく、階級やエスニシティにあるのではないか、といったものである

*7:「アーバニズムが――移民、経済変化、そして代替的下位文化のような都市化のあらゆる解体的な側面にもかかわらず――エスニック下位文化の凝集性とアイデンティティを増大(あるいは少なくとも維持)させる」