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(無為の)共同体について―めも

 ブランショとナンシーを読んで

 まず留意すべきことは、彼らのテーマである共同体とは、社会学や政治学であつかわれる共同体とは少々性格が異なるということだ。ここで扱われている共同体とは、それらよりも根本的なあり方、日本語にすれば共存や共存性に近い意味のものである。
 彼らの説く共同体というのは、単一の価値規範に則るという意味における共同体を批判している。そして共同体を「共にあること」に目を向けることによって共同体とは何かを明らかにしようとしているのである。
 合理的共同体―個々の明晰な精神はその共通の言説の代表者でしかなく、各人の努力と熱情はその共同の事業のなかに吸収されて脱個人化してしまうような共同体*1を批判し、それとは別の共同体のあり方を論じている。
 そう、伝統的な自己同一的な主体のカテゴリーに基礎を求める共同体批判なのである。複数であり単数である存在において、それらを排他的な私たち≒合一なものとして語らない方法を探る。そう、共同体というよりも共存について語っているのである*2。何かを共有している、たとえば文化であったり価値規範や偉人といった何かを共有している共同体のことではなく、なにも共有していない共同体―ブランショジャン=リュック・ナンシーが語るそれは非同一性の共同体である。


 私にとって何よりも興味深かったのは、西洋近代意識の一つをなす、失われた共同体という意識、この意識は幻想にすぎないのではないかという問いかけである。そしてまた、この「喪失」という体験によって共同体を成り立たせているという問いかけである。
 J=L・ナンシーは、ルソーの語った自然状態のような「原型共同体」への希求が常にヨーロッパにおいては存在し続けていたとする。しかしそんなものは幻想であり神話であるにすぎないのではないか。そして、そんな想像上の神話を幻夢を理念とすると、現実との齟齬の間で摩擦が―暴力が発生するのはあきらかであると考える。近代ヨーロッパはルソーから始まって、失われた共同体という幻想を作り上げてきたのだ。(合一の内在性と親密の)「喪失」そのものが共同体を成り立たせているのである。
 内在や合一的な融合がもつ論理は、死に準拠した共同体の自殺の論理だ―ナチをみろ*3ヘーゲルもまた国家という他者が真実をもつとする点で危険なのである。死は止揚されはしないのである。
 失われた合一への郷愁、ヘーゲル的な欲望(承認の欲望)このような意識を私の意識としてもつことはできない。そこでは複数でありながら単数である私たちは、私という主体は融合状態の中で単一の共同存在・無名の私たちに作り変えられてしまう。
 その危険性に対して警鐘を鳴らしているといえるだろう。国家や宗教の正義、または人間は生産者として人間になるというイデオロギー、こうした理念のもとに運営される共同体・社会が過去においてどのような運命を辿ったのか言うまでもないだろう。

 では共同体とはなんであろうか

 それは上記のようなのではなく、私の意識というのはむしろ共同体において共同体をとおして―共同体のコミュニケーションとして―しかもちえないのである。自己の外の体験の空間それ自体であり、その空間化にほからないものとしての共同体なのである。それは集団的無意識に似ているかもしれない。
 つまり「共同体は個としての存在の欠落部を補填するものであるべきではない」のである。しかし個人の存在においては常に欠落・不充足がつき纏っているではないか、不安があり充足・従属を求めてしまうではないか。その不充足に(不安に)ナンシーとブランショは注目する―それを共同体の根本に据えようと試みるのである。彼らによれば不充足、それは*4原理である。そして原理であるとは、ある存在者の可能性を統制し秩序付ける者ということとされる。この不充足の体験には他者の存在が不可欠である。そして共同体とは、こうした不充足を感じさせられる常に再確認させられる場のことを指す。差異が露呈され、分割される場といえる。死に向けて秩序付けられたものが、共同体のあり方であるとされるのである。そして死は独りでは起こらない、それは共同の、他者の存在を必要とする出来事である。
 こうは考えられないだろうか、死というこの不安・不理解・非同一の体験、こうした不充足が共同体の原理であり、それゆえに過去・現在我々が見てきたように合一や共同の価値や歴史・民族を求めてしまったのである。共同体は死と深く結びついている。それは死が露呈する有限性、個の有限性である。有限性のある孤立した個は、そうした不安や有限性ゆえに共同体に帰属し統合を保証され安心を得てしまった―それで幸福に至れると考えられていた。死によって無に返ってしまう個は、共同体に属することによって意味を永遠の生を獲得できるという甘美な幻想によって、個の死は共同体の死に回収され、共同体は死を欲するのである。
 死といわれても分かり難かったら―たとえば私と昆虫の関係をみてみよう。いやそれよりも、『無為の共同体』の日本語版「私たちの共通の果無さ」で語られている、私と外国人という関係で見てたほうが分かりやすいだろう。おそらく私と彼には共通の表面がある、しかしその共通の表面には属し得ない場所がある、理解しあえない場所がある*5。この私と彼や昆虫との間にはどうしようもない溝が、割れ目が引き裂きが横たわっている。おそらくはこのような体験このような場所―そしてまた同時に、私と彼の経験がこの無為な何も生み出さない(かもしれない)割れ目を分有すること―によって私と彼は「共に在る」、今のこの時私と彼を結びつけているのは他の何ものでもない、この割れ目である。この非同一性によって共にあること、割れ目を分有することが共同体のあり方である。

 たしかに、共同体はある合一*6への、融合状態へ向かう傾向がある。融合の内に自己が滅却され、それによって(ルソーやヘーゲル的な)自由が得られるような共同体がある。しかし共同体は至高性の場ではない、バタイユはそれを嫌悪し、不充足な状態を重視した*7
 また共同体は複数で存在するという意識を分かち合い共有するだけにとどまらない。不充足は満たされることによってますます欠如が過剰を求めている*8。共同体は、共有の機能を停止してしまう誕生と死という出来事が共有されなければありえないのである。他人の死に己を晒す、他人の不在、これこそがコミュニケーションの基盤である。共同体は孤独を癒すものでも保護するものでもない、彼を孤独にさらすそのあり方である。死を共有すること、死を個人の死でしかないものとは扱わないこと、それが鍵となっている。
 
 共同体は抽象的な非物質的な何かによって共同体になるのではない。共同体は営みの領域には属さない、それは生み出されるのではなく有限性の体験として体験される。同一性に還元され得ない差異・溝・隔たり、それは死によって、それは不理解によって体験される。これが分有である、それは決して私有でも、共有でもない共に出現する共に体験される境界線、または場みたいなものといえるかもしれない。この体験される場こそが共同体なのである。それはまた、アレントのいう「間」に似ているのかも。そういう意味では共存ともいえるし、共同性的なものともいえるのだろうか。

 合一の代わりに、差異を自己解体を迫られる他者とのコミュニケーションがある。

 そして「ともにあること」とは、分割・分有であり、それがバタイユのいう死なのである。共同体の根本的なあり方は、この死―私のものには成り得ない・理解できない―という体験なのである。それは決して合一・融合という体験にあるのではない。また共同体は共同の実体でもない、それは他者とともに誰があるということ、一緒にいるということなのだ。
 
 

おそらくこんな理解で大きな誤りはないだろう、哲学から離れていたが、主体や共同体そのもののあり方に大しての問題定義、とくに喪失の共同体観に関して私自身疑問に思っていたので思わぬブレイクスルーを得た気分だ。エスポジト読んで必要性に駆られたというのもあるが、たまには哲学に立ち返るのは有益だと再確認させられる。
 

〈メモのメモ〉
 

 共産主義(communisme)と共同体(communaute)前者には近代における生産が、後者には無為・働かないが関連する。営み―作品の彼方にあり、営み―作品から身を引き生産することとも成就することとも関わりを持たない。共同体と共産主義は今日の日本だと結びつき難いかもしれないが、この時代では切り離し得ないのである。ヘーゲルヒューマニズムなどにも留意するといいだろう。生産者としての人間という共産主義のイデオロギーへの帰属、人間は生産しなければならないという思想に対する反発としての無為といえるだろう。ルソー・ヘーゲルハイデガーへのアンチテーゼといえるだろう。

恍惚はバタイユにおいては内的体験でありながらも、自己が外におかれること。供犠=交換・コミュニケーション

 「分有とは次のような事態に対応している。すなわち、共同体は私に、私の誕生と死とを呈示することによって、自我の外にある私の実存を開示するのだ。とはいえそれは、あたかも共同体が弁証法のモードや合一のモードに則って私にとって代わるような別の主体であるかのように、共同体においてあるいは共同体によって再び投じられた私の実存ではない。共同体は有限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結局、それ自体この露呈とは別のものではないのだ。(中略)有限性こそが共同体的「であり」、それ以外の何ものも共同体的ではないからである。」(ナンシー49)

エスポジトは、主観主義的な主体観によって基礎づけられている点において共同体主義自由主義も似たようなものであると批判する。たしかに、共同体として共有している意識に基づく「正しい」に依拠して生きろという共同体主義は言わずもがな、自由主義もまた多様で自由であるべきと要請する。「多元性と寛容は結果として実現されねばならないのであって、めざしてはならない。それをめざせば、すなわちテロスとして理論内容に取り込んでしまえば、当の理論が種々雑多な声に混じって生じる微細な声のひとつであり、そのようなものとして事実的にのみ多元性を実現しているのだということが忘れられてしまうからだ。」*9とは言っても、彼が批判するような問題は確かに抱えているのかもしれない。

共同体≒コミュニケーション空間ともいえるのだろうが、それはハーバマスの語るような討議空間・理想的な発話状況のそれとは異なると考えられる。似ているのを示唆している方もいたが。

 共同体において喪失が感じられ、その充足をどうしようもなく必要としてしまうとして、現実的な共同体においてそれではどうしたらこの不充足を、同一や統合に陥らずにマネジメントできるんだろうか。

アルフォンソ・リンギス 『何も共有していない者たちの共同体』序文
http://www.rakuhoku-pub.jp/book/27028pre.html
参考にした――こっちのが分かりやすいorz
http://www.saysibon.com/yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm

*1:リンギス:2006

*2:ここで否定されていう共同体とは、分かりやすく言えばサイードのオリエンタリズムのことであろう。そしてその西洋または東洋という代替不可能性のことではないか

*3:コミュニズムもナチズムやファシズム等は、いや現代の一部国民国家も、個を超える共同体の(上位の)価値を掲げて、個人の不安を利用し大衆を動員してきた

*4:共同体の?

*5:理由はなんでもいい言葉が通じないとか、過ごしてきた文化が違うとか―でもそれでも過コミュニケーションは生じているとか云々

*6:神と一体となり融け合うこと

*7:とはいっても、共同体は共同体である限りにおいて融合状態・合一へ向かうことを止められないのではないか

*8:ヘーゲルにおいて自立した自己は他者からの承認をめぐる死を賭した闘争によってえられる

*9:http://socio-logic.jp/baba/os/os00.php