インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

うそ!?これって第二の思春期(中年の危機)?文系修士卒無職だった私が転がりまわってビジネスパーソン・オジサンになって10年経ったけど最近は何のために働くのか、自分とは何者なのか分からなくなってきて...その1:問い立て

Twitterをやめしばらくして、自分の誕生日に特に欲しいものがないという状態から、自分の欲しいもの欲望ってなんだっけ?という問いが私の中にうまれた。
自分が欲するもの=自分とは過言かもしれないが、覚者となったゴータマ・シッダッタでさへ何かを求めたからこそ出家して、解脱という悟りに至った。これはまー詭弁であるが、その者が何者でどんな者なのかを理解するのに、何を求めて動いている者なのかを探るのは悪い手ではない。

何を求めるのかというのは、何に価値を置くのかにもつながる。

なぜこんな話を始めたのか。それは私が欲しいもの/したいことがなくなってきた、自分の欲求を満たすために生きてきたような私にとって今の状態は、これから何を原動力にして何を求めて生きていけばいいのか曖昧で不安定な状態になりそうだと危機感を抱いたからだ。
人が生きるのに理由はなく、生きるのに理由は必要ないけれど、これからもこの(労働者としての)人生を続けていくにはなんらかの理由が欲しいよなと、私自身に対して他でもない私自身が求めていた。
オジサンの自分探しである。

色々今日一日考え書いたけれど割愛して、結論から語れば私には二つの問いがある。

  • 私とはなにか。だれか。なにを大切にしている人間なのか、なにを求めているのか。私は何をしている/した時に喜びを感じるのかー自分とはどういう人間なのか
  • これからも私が働く目的・理由・目標

求めているということは、現在それが欠乏している足りていない状態であると想像できる。
つまり、同じような内容を何度も書いているということは、実は欲しいものがないのではなくて、もしかしたら理由が意味が目的が欠乏しているのかもしれない。そうか、明らかに私はなんらかのなにかのための目的や理由がほしい。と気づいた。私は何を求めているのかを求めている。

それについて、この半年間を目途にして自分との対話をすすめ、これからの私の人生の指針をみつけていきたい。
私はなんのために働き、なんのために生きて、どこへ行って死ぬのかを見つけたい。

インターネットでのアイデンティティをまごつかせろ!!

Twitterをやめて4-5ヶ月くらいが経過しました。本当にTwitterはやめてよかったと思います。
その一方で最近Blueskyの招待コードを頂ける機会があったのでー本当はもっとはやく触れてみたかったけど、招待コードほしいってガツガツ求めるのは自分としては格好悪いというか、ほら、ガツガツしている男って嫌われるというかキモいじゃないですが、だから別にいらないけどみたいなスタンスでいましたーアカウントを作成してはじめてみたのですが、Blueskyも危険なインターネットでした。

なにが危険なのか、あまりにも15年前くらいのTwitterに似ているからです。つまり楽しい。このインターネット沼にはまってしまいそうだなと、インターネット経験豊富なオジサンは直ぐに理解りました。
このままでは危険だ。ダメだ。そう思った際に大切なのは瞬発力と方向性を決めること、一定の枠を設けることです。そうして初期衝動をコントロールすることです。自由すぎると私はのべつまくなしに楽しんで収拾がつかなくなる傾向があります。それは今の私が望むところではなかったです。それでどうしたか。私はいくつかのルールを自分に科しました。

  1. 日本語ではなく英語でPostする
  2. 自分の考えや日記を1日1回から数回程度にする

これだけでBlueskyをやりたくて仕方がなかった、”ねむい”、"だるい"、”寿司食べたい”みたいなどーでもいいPostを並べたり好きな音楽を紹介したい初期衝動を抑え滞在時間を短くすることに今のところ成功していますー数日程度ですが、総Post数が10なのは本当に私自身にとっては驚くべきことです。オジサンというインターネット経験を活かすことができました。随分とうまく立ち回れるよう小賢しくなったものです。

あとは、どういったアイデンティティでアカウントを運用していこうかなとまごつかせているだけですね。
インターネットではアイコンを惣流・アスカ・ラングレーで貫き通していたのですが、Blueskyではやめました。IDこそ同じなのですが、今までのインターネットからの決別を自分の中でしたいのだと思います。だけどリアルでもインターネットでも、あまり飾ることができず私は私でもあるので同じような立ち振る舞いにはなるんだなと。無理しようか自然でいようかまごまごしています。積極的に自らアイデンティティをまごつかせているんですね。今書いていて気づきました。

Blueskyは居心地がとても自分にとってはいいのですが、残念ながら良くも悪くも思考・志向の方向性や雰囲気は偏っているのは楽でいいんですが、こういった快適さは同質性の高さに拠るものなので、私は嫌いです。楽しいのですが、同じような意見が共鳴していく空間はインターネットでの私という人間にってはあまり喜ばしいことではないので、どうしようかなーとアカウント運営に悩んでいます。

白髪染めをした

白髪がもう気になってきたので人生で初めて白髪染めをしてみた。
いや、本当に若返ったので白髪染めはおすすめだわ。想像以上に効果ある。費用対効果高いわー。
オジサンだからこそ身だしなみには気を付けて白髪もそめたりぼかしたりだましだまし自分も周りも騙して生き延びてやろう。腰が痛くなったり指先が痺れたりしてもだましだまし生き抜いてやろう。

自分の姿は自分で見ていない。

自分のプレゼン練習をZoomとかで録画して見返して撮りなおして修正して見返してといった死にたくなるようなことをしたことがある。自分の声って、なんでこんなに気持ちが悪いのだろう滑舌悪すぎるだろういい声になりたいと思ったことは数知れず。それでも、早口になりすぎて何言っているか分からなくないか客が眠くならないかちゃんと論理だって分かりやすく要点がまとまった他人が理解できる作りと話し方になっているかと撮影して見返している。実際は死にたくはならないけど自分の姿を見るのは厳しいがお金のためなので特に問題はなく実施できる自分がいる。この特に問題なく実施できている自分の姿に気づくのは時間がかかる。自分の姿を常に録画するのは難しいし、録画したとしても直視する/できるとは限らない。自分の姿を、その時の自分でみることはできない。
今日、邦ロック史の話から最近の日本のバンドの話になっていろいろとdigっていた際に、なんというか青春キラキラなんちゃってエモエモってエモいだけでお前そんなこと絶対思ってないだろ!!ってなんちゃってロックとかボーカルがナルシストカッコつけな歌い方をしている気色悪い曲に出会った瞬間に、私がぼっちちゃんみたいに呼吸困難になって叫びだすとともに顔がヤバくなって震えだしているよってワイフに指摘された。こんな感じに
※これ著作権的に大丈夫なんだろうか

なんと、私みたいな陽キャラでクラスにいるキタちゃんみたいなイイ子な私がぼっちちゃんみたいなところがあったなんて初めて気づかされた。そんな一面が私にもあるんだなってことは自分一人では気づけない。自分がどういう人間かを決めるのは私だけど自分にはどういう顔があるのか自分がどういう人間でどうありたいかを決めるのは私というよりも他人からの見え方/視線を意識したモデルに自分を投げ入れ続けることの無益な受難なのだみたいことは昔から言われているけれど、そんな話ではなくって、もっとシンプルに自分からみた自分の姿と他人からみた自分の姿はイメージと想像以上に異なることがあるんだなってみたいな話でもなくって、自分を見つめなおしてみようかなと最近かんがえている。という惚気でした。

サラリーマンになれない・なりたくないと思っていた哲学青年が10年働いて仕事したくないだけのオジサンになった

働いて専業労働者になって10年が経っていた。まじか、と思ったので殴り書きする。
11年前の無職で死にたくなっていた俺よ、大丈夫いまじゃ立派なビジネスパーソンだよ。仕事なんて転がり落ちて流れに乗ればいいんだよ。

しかし、いや、まだ10年しか働いていないのかと思う、正直仕事は飽きた。もう十分働いたよ。
仕事での、やり甲斐とか達成感とかリスペクトとか侮蔑とかこいつ使えねーなといった視線とか大失敗して赤っ恥格とか社内表彰されるとかメディアに乗るとか海外出張とか審査機関から電話かかってくるほど年収が一気に上がった時の脳汁のヤバさとか転職活動とか糞みたいなマネージャーを引きずり落とすとか一番下っ端からチームの主力になって社内転職してまた一番下に転がり落ちてペチャンコになるとか馬鹿にしたやるぶっ殺すとか逆にペチャンコにするとかプライドをズタズダにされるとか嫌味言われた奴に復讐してボコボコにするとか、いろいろ味わったけど仕事は楽しくない。本当に楽しくないんだ全然やりがいとか感じない面白くない嫌だ働きたくない可能な限り働きたくない。いやーーー本当に労働は悪だよ。アナーキストに私はなりたいなれないお金があって安定した生活を捨てられない無職でなにもなく明日死ぬか働くかで動けなくなって泣いたりはいたり屋上に登った夜を経験しているので無職になるのがお金がないのが怖くてたまらない。怖いものには立ち向かうか逃げるしかないので労働者になってお金を出来る限り楽して沢山手に入れる意外の目的がない。これはTwitterでも働き始めたくらいから言っていることだけど、10年働いて千代田区外資系ITリーマンになって社内でもそこそこなれてきた今でも、労働に楽しみも喜びも見いだせない。噓偽りなく仕事とかどーーでもいい、仕事で成功してもミジンコほど程度にしかもうれしくない、どーでもいいとおもっている。
100均に売っているパズルがあるでしょ。あんなパズルでも完成させたら達成感みたいなのを得られるように、仕事で課題や問題があって乗り越えたり解決すれば、そりゃ達成感はあるけど、パズルとかスマホゲーの達成感と同じ。違うのは年収が上がった瞬間にでる脳汁、これでまた生活に余裕が出る安心できると思えた時が一番嬉しいかもしれない。手元にあって自由に使えるお金が増えるだけしか労働に価値を見出せない。それでいいと思っている。食べるために働くのだから、それ以外は余計なものだと割り切れているのは精神衛生上悪くないんだと思う。まじめにできないのが功を奏しているんだろう。
あとはこの前にも書いたけど可能な限り楽したいから安定したいのでそのための努力はするけどあとまだ少なくても20年以上は下手すると30年働くとか信じられない出来ちゃうのだろうと思う私はなんというか人に合わせて一般人になる才能というかタフさというか要領のよさはあったみたいだけど働きたくない、けど働けてしまう。なんだかんだ仕事はこなせて出来てしまうからできるからやる以外にない。生きていくためにご飯と住まいと衣服と本とかワイフのために心と体を壊さない程度にこなす以外にはない。(なにもしないとヤバい、ヤバいと思ったら勉強するしないと死ぬくらいにやばい状態になるという経験が何度かあるので勉強するという習慣が恐怖によってインストールされているので生き残れているというのはあるかもしれない。)
本当に仕事に対してお金以外の価値を見出せない。いいとかわるいとかじゃなく、お金があったら絶対に働かない。珈琲豆焙煎してカレー作って鮨食べて登山して南の島でのんびりして過ごしたい。

本当に働きたくない。仕事で成功してもなんにもうれしくない喜べないお金手に入るだけしかない。こんなに働きたくないやつが時間も身体も拘束されて働いているんだからせめてお金は沢山欲しいだけだ。本当に出来る限り働きたくない。これはカッコつけでも斜に構えるでも逆張りでもなんでもなく心からの叫びだ

欲しいものがなくなってきたオジサンの近況

最近欲しいものがなくなってきた。*1
それが意識されたのは、誕生日で自分へのご褒美プレゼントになにが欲しいかなと思いを巡らせた時

生活に必要なものはーそれこそパンツに下着とか靴下とか美味しい味噌や醤油はーほしいのだけど、特にそこまで生活に必要でないなにか特別なものを欲しいという気持ちが沸き上がらないのを感じる。
私は働く活力として欲しかったものを買って消費したいという欲望を燃料にしていた割合がかなりあるので、ここから何のために働いているんだっけという、月並みで贅沢でありきたりな疑問を抱きそうになっているーその意識はいったん脇に添え物のように置いておくとして

私の欲望というものはどこから来ているんだっけと考える前に、ルネ・ジラールのミメーシスを思い出した。私の欲望は自由で自立した個別的な欲望ではなく他人の欲望の模倣である(という欲望もある)というあれだ。
私は素朴に言えば、他人と同じにはなりたくない他人の模倣者にはなりたくない他人が欲しがるようなものは欲しくない!というタイプの真っ直ぐで純粋な人間なので、この話は私にしては珍しくすんなりと受け入れることができた。なぜなら私もまた他人とは異なっていたい同じは嫌だという点において他人の欲望にたいしてとても敏感だからだ。
そうやって生きてきたのだが、最近は流行りや今っぽいことも試してみようという好奇心から今の流行りっぽい服を着てみたり流れに逆らわないで乗っかることをしてみたら意外と楽というか、思いのほか斜に構えつつ流れに乗ることも苦も無くできてしまった。なんとなく、そんな結果に拍子抜けしてしまっていることはある。チャレンジしてみたらこんなに簡単だったんだって。どうやら私は思った以上に流れに乗って漂うのはできるようである。それがどうしてもできない人からすればうらやましい限りだといわれてしまったのだが難しいもんだ。

私はかなり無理して他人と違うようにありたいとおもい、それを実践してきたために、たぶんそのまま地元の流れにのっていたらたどり着けなかった島にたどり着いた感覚はあるので、そこは後悔していない。
一方で、ある程度やってしまって、次に私はなにを欲望にして動力源にして動いたらいいだろうかと悩んでいるんだと思う。
なりたい自分になれたかというと疑問というか、なれなかったのだけど、ある程度やりたいことはやって、なんとなく目標としていた結婚生活とか住居とか年収は達成してしまったのも、特に欲望が見つからない原因かもしれない。もしくは未だ叶っていないけど、まー将来的には達成できるだろうなという容易に想像できてしまうのも大きい。そう、喜ばしいことなんだよ安定したんだようやく。

仕事に関しては、私はなんにもできない一番の下っ端でいつ新しいチャレンジを推奨させられる対象になるか危機感はあるのだけど、熱量も欲望もないし馬鹿にされてもこいつなんでこんな仕事に心血注げるんだろう愚かだなーと飄々としていられるので、とくにこうありたい!みたいな目標もモデルもない。ある程度テキトーに楽にできる限り沢山お金をもらって仕事をこなせればいい。仕事で分からないことがあると楽になれないため、仕事で楽になるために勉強して安定しポジションについて楽して心配なく労働時間も短くお給料も満足できるくらいにはもらっていたいので、そのためのことややる一方で、そのため以外の熱意も欲望もない。誰かみたいになりたいという欲望も憧れもないので、ふんわりやっていきます。

美味しいものに対しては欲望は常にあるのだけど、一方で何か月も先に予約して食べるというのがあほくさくて、私は今食べたいものを美味しく食べたいので、なんか予約のとれないすごい店への欲望もないので、自分で作ることにどんどん注力しているし、寿司はいきつけの寿司屋ができたので、そこで安定してしまった感じもある。

コーヒーに関しては奥が深いのと本格的な焙煎機を買うとなると自宅では無理だし、そこまでしたいのか、いや今の機材でまだ極められる領域にまで残念ながら達していない上には上がいるので、ここにはまだ意欲が見いだせる。
特にオチはないとおもって書いていたけど、意外とまごつかせているんだな私

*1:物だけど食べ物はまた別の話だ。美味しいものを食べてこその人生であることに変わりはない

身体化された労働者

コロナ禍で3年と数か月にわたってフルリモート勤務している状態から
突然、週に何度かは出社が義務という方針に私が務める会社も追随した。
本当に弊社は大きい流れへ金魚の糞のように模倣することが哲学なんだなと呆れてしまう。

オフィスに従業員を戻すのはナンセンス、これからはリモートで生産性を上げる時代だとか。
フルリモート勤務を保証するとか何度も言ってきたくせに、そんなことなかったかのように手の平を返した弊社経営陣への不信感はどんどん膨れ上がっているのだが
その一方で、こうしてグチグチと言いつつ思いつつも、あーー出社する準備しないとなと
サイズが合わなくなり出社するには足りなくなったシャツや革靴を新調しはじめたり、新しい環境にひつようなツールの導入準備をしたり
生活スタイル・時間の変更も必要なので、そのための新しい役割分担やタイムスケジュールについて考えたりワイフと話し合ったりしている。

私は社畜ということはないし、てきとーに労働者をやっているという自意識だったが
口では嫌だ嫌だと言いつつも身体は新しい労働環境のため動いて準備してしまっている。
結局動いてしまっているほうが効率的だし後々楽だからというのもあるけど、労働のために私の生活を変えるということに驚くほど抵抗もなく粛々と準備を進めていることに、ふと気づいてしまって、そしてそれにそこまで落胆や驚きがないことに、なにか虚しさを感じた。
労働者としての自分が身体化されてしまった。肌になじんでしまったんだなと
まー仕方ないかと会社への道を行進するしかない。

いや、やっぱりムカつくよな。特に名言もせず当然のこととしてライフスタイルの変更を強制されるのは苛立たしい。
ただ、こうして苛立たせて追加の退職金を払うことなく辞めさせるのも一つの会社としての手段なんだろうと分かるので腹が立つわ。