インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

自分の姿は自分で見ていない。

自分のプレゼン練習をZoomとかで録画して見返して撮りなおして修正して見返してといった死にたくなるようなことをしたことがある。自分の声って、なんでこんなに気持ちが悪いのだろう滑舌悪すぎるだろういい声になりたいと思ったことは数知れず。それでも、早口になりすぎて何言っているか分からなくないか客が眠くならないかちゃんと論理だって分かりやすく要点がまとまった他人が理解できる作りと話し方になっているかと撮影して見返している。実際は死にたくはならないけど自分の姿を見るのは厳しいがお金のためなので特に問題はなく実施できる自分がいる。この特に問題なく実施できている自分の姿に気づくのは時間がかかる。自分の姿を常に録画するのは難しいし、録画したとしても直視する/できるとは限らない。自分の姿を、その時の自分でみることはできない。
今日、邦ロック史の話から最近の日本のバンドの話になっていろいろとdigっていた際に、なんというか青春キラキラなんちゃってエモエモってエモいだけでお前そんなこと絶対思ってないだろ!!ってなんちゃってロックとかボーカルがナルシストカッコつけな歌い方をしている気色悪い曲に出会った瞬間に、私がぼっちちゃんみたいに呼吸困難になって叫びだすとともに顔がヤバくなって震えだしているよってワイフに指摘された。こんな感じに
※これ著作権的に大丈夫なんだろうか

なんと、私みたいな陽キャラでクラスにいるキタちゃんみたいなイイ子な私がぼっちちゃんみたいなところがあったなんて初めて気づかされた。そんな一面が私にもあるんだなってことは自分一人では気づけない。自分がどういう人間かを決めるのは私だけど自分にはどういう顔があるのか自分がどういう人間でどうありたいかを決めるのは私というよりも他人からの見え方/視線を意識したモデルに自分を投げ入れ続けることの無益な受難なのだみたいことは昔から言われているけれど、そんな話ではなくって、もっとシンプルに自分からみた自分の姿と他人からみた自分の姿はイメージと想像以上に異なることがあるんだなってみたいな話でもなくって、自分を見つめなおしてみようかなと最近かんがえている。という惚気でした。