インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

うそ!?これって第二の思春期(中年の危機)?~中略~...その2:私は何のために生きようとしていたのか

先週の三連休、私は自分探しの旅というわけではなく、珈琲を飲みに鶴岡へ行った。*1
ただ珈琲を飲みに行くとはいっても片道5時間程度はかかり時間に余裕があるので、買い損ねたサンドイッチにクソ不味いアイスカフェラテを伴に車内でピンチョンの『ブリーディングエッジ』を読んだり、インターネットに繋がれていないクリアなPCを立ち上げて、旅先でいけ好かない自分との対話をした。

訓練されたビジネスパーソンはIssueよりはじめて結論から述べる。
私もその作法に則り、今回は結論から述べることにする。

私はなにを求めていたのか。なんのために生きようとしていたのか。
私は自分を手に入れたかった。
私は、ただ自分から零れ落ちるものだけのために生きたいと思い、ただありのままの自分だけのために生きようとした―それを忘れ見失いなにか大きなものへ逃げてしまった。

高校一年生の初冬、上大岡の京急百貨店で私はヘルマン・ヘッセデミアン』の冒頭の一説に遭遇した。
「ぼくはもとより、自分のなかからひとりでにほとばしり出ようとするものだけを、生きようとしてみたにすぎない。どうしてそれが、こんなに難しかったのだろう」
原文は"Ich wollte ja nichts als das zu leben versuchen, was von selber aus mir heraus wollte. Warum war das so sehr schwer?"*2
この一説に出会った瞬間にわけもわからず涙が溢れ目を赤く腫らしてレジに駆け込んで、なにがなんだかいまいち理解できないけれど、これはすごいものだと感動ーこの一言では言い表せないほど私の人生に衝撃をあたえた。

私は自分のなかから自然と溢れ出るものだけのために生きたかった。私以外のほかのものはいらなかった。

自分と対話して、これに気づいた帰りの電車内で思わず笑ってしまった。そうか、私は16歳の頃に出会った思いのために生きていこうとしていたんだな。と気づいた。
そして車窓に映る今のしゃらくさいオジサンになってしまった自分に問い聞いてみた「お前は今、自分らしく自分から自然とほとばしるもののために生きているか」と。それに対して窓に映った私は「まー自分らしくって使い古されたPOPミュージックみたいな表現にはちょっと引っ掛かるけど、うん、自分らしく生きられてるんじゃないか。自分に嘘ついて生きていないよって、気負わずいえるよ」という回答がとても素直にリラックスして肩ひじ張らず夏山に吹く風のように返ってきた。

あぁ、私はあの頃、涙を流してがむしゃらになって追いかけたものを、もう既に手に入れてしまっていたんだなと分かった。
むかつく大嫌いな醜い自分を全部壊したくて全部殺したくて頭を振り回し叫んで貧乏揺すりしながら音楽を聴き勉強をして古着屋を回って図書館の本を読み漁って、いつの間にか

意味がなくなってしまった人間は、ただ残りの人生を余暇として楽しむか死んでしまう以外に道はない。もしくは次へと繋がるため尽くすしかないのだろうか。なんて若いころは真剣に悩んでいたことを思い出した。

今の私はなにかしたいことがある?仕事はしたくない。これから、どう生きようか。やりたいことは、そんなに思いつかない。

*1:コフィアの珈琲は期待以上に美味しかった。特にハラールモカとブラジルが美味しかったしっかりと焼けているのに真っ黒くない。味の印象としては、なんといっても後味だ。後味が9割といってもいい。珈琲を飲んだ瞬間はスッキリとしていて、後味がぼわーーっと口の真ん中に広がり鼻腔と舌の奥と喉の曲がり角のあたりをくすぐり漂う。上顎に甘さがひろがり、そこに甘さが広がって後味の余韻が気持ちよく残ってくれる。口の中に幸せな珈琲の余韻が漂うんだ。豆はそれはもうクッキリときれいにカラっと焼けている。そう、しっかりと火が入って焼け切っているのにドライ、乾燥している。ジトーっとしていない染み出して滲みだしてくる、大坊系統のような深入りではなく、あくまでカラっとした後味が醍醐味の美味しい珈琲だった。私はかなり好き。とても好き。なにより重くなくカラとして飲みやすいく美味しいので、甘いお菓子とも合うし。芯まで火がはいって豆の中に風が吹いている初夏の梅雨前の青空のような珈琲で大好きな珈琲だった。あーーもっと早くいけばよかった。豆を買ってわかったけど、体積に比して軽いので、相当に水分を飛ばしている

*2:いまドイツ語をちょっと触ったあとでは、この岩波訳は、ちょっと仰々しいなとおもうけど