インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

可能性と安定した生活の話

ブログを書いても誰にも届かないと思いつつ書いているのは、案外自分には届いているからかもしれない。

昨日、若者と話して可能性と安定した生活について思い至った。
その若者は私からも別の方からみても優秀で可能性があるが、本人は将来のことなどで悩んでいた。
彼の目標にやりたいことは何なのだろうと思う一方で、様々な不安があることは容易に想像できる。
例えば夢や目標のために進んだとして将来的に、安定して自立した生活が送れるのかという不安が滲み出ていたように感じた。

可能性という点において、オジサンになると「まー私はこんなものだったのかな」という部分と、私だったら今後頑張ればこれくらいなら達成できるかもなというポイントが想像できてしまえるようになってしまう。この年齢までに経験して努力して達成できた現時点と、そこからの将来像をイメージしやすい。それは若いころの自分にはなかった視点だ。若いころの私は、どんなコストをかけてでも目標を達成したい、自分ができるとか能力があるとかはそんなことは一切顧みず考慮せず構わず向こう見ずに飛び込んだ。それで上手くいったことも、いかなかったこともある。

子供の頃は自分の将来なんてなんとなく楽観的にしか想像できなくて
ちょっと大人の若者になると将来に対してどんどん驚くほど悲観的になって
いまオジサンになった私は、その若いころに想像すらできなかった将来の私になってしまったオジサンである私は、将来に対して特に若者のような不安はない。*1

そう、若者のように将来に対する漠然とした、しかし確実に今ここにある不安という類のものはないけれど
その一方で若者にはない安定というものはある。ただ可能性と時間はない。本当にない。
いや、違った。違う、そうじゃないだろう。安定を捨てれば可能性も時間もある。若者ほどではないにしても、ある。
捨ててしまえればの話だけど、この安定を捨ててまで追い求める可能性か?と考えるや否や、自分の今までの人生や努力に能力を顧みて、その選択肢は驚くほど簡単に圧し折られる。
ある程度の安定した場所を確保したオジサンは、将来の可能性を簡単に圧し折ることができる。
可能性と安定は互いに互いに相容れずに求める脂肪分とオジサンのような関係なのかもしれない。

その一方で安定のない若者は、将来の可能性に飛び込んで決断するしかない。決断するしかなかった*2
安定を求めていなくても、そこでは安定しているであることを前提とした将来を求めている。成功するというのは、往々にしてそうした前提を含意する
将来の可能性がたくさんある若者は大変だ、押しつぶされそうな自由と複雑性の刑に処されている*3

ただ成れの果てであるオジサンとしては、自分を納得させる人生を歩むことができたのか。それは大切な問題だ。どういった視点・観点から自分の人生を見つめるのかが大切だ。
私はある点においては、これ以上より人生を上手く回せなかった感覚はあるので、その点では納得しているのだけど、これから私はなにを目標にしたらいいのかが分からなくて泣いている。

*1:今の仕事や年収が失われて生活が不安定になったらどうしようという不安はあるが、その一方でキャリアもあるため会社をクビになっても全てが失われることはないだろうという漠然とした楽観主義もある

*2:決断しないでいた私は院卒無職という地獄に落ちた

*3:かと言って我々オジサンがなにかアドバイスできることなどないのだが