インターネットでのアイデンティティをまごつかせて

第二の思春期を終えたオジサンが、何故私は働くのか私の生きている意味はなんなのかについて思春期のように省察するブログです。

正月休みがはじまった初日

13連休取れたけど仕事が終わらず仕事が残ったまま12連休に突入した初日
朝から部屋を掃除しワックスがけという年末の必須イベントをクリアしてロイホでランチを食べついでとばかりに正月用のお花とかまぼこ(鈴廣)を買って更に念入りに風呂掃除までした。えらい!!!!!引き続き冬休み期間で窓掃除とキッチン周りの掃除もしたい。

あと念願のミラーレス一眼Nikon Zfが届いた。うれしい。人生初の一眼レフカメラというおもちゃを手に入れてハチャメチャに喜んでいた。写真撮りに散歩したい。レンズもすげーーのが欲しいと思いつつセットの40mm F2が本当に十分すぎるほどだわ。

あとは”はしメロ”というか”鍵を返せ”というバンドを見つけて楽しんでいた。センスがあるし楽しくていい。はしメロはラップも上手くて驚いている。これからもっと発見されて有名になるんだろうと確信している
youtu.be

明日はなにをしようか。試しに連休全て日記書いてみようかな。

あたらしい日記を書こうと思う

また新しい日記を書こうとおもった。ワイフと話していて、あたらしいイメージがわいたからだ。
その日記は、どうしよう。非公開にして、まとまったらコピ本にでもしてまた出そうかな。

この日記のアイデンティティがまとまらないわ。
こっちは珈琲と読んだ本やみた作品に食べたものについての思い出として絞るかな。

そうしようか。よし、決めた。

特に書くことがないほどに日常を回復した

色々とあったのだけど、特に表に出そうということがない。
リストラになり死ぬ気で必死こいて再就職して1ヶ月と1週間ちょっと、今までと同じような日常を回復した。

今までと同じように意味のないミーティング時間には自習したりリモートなのをいいことにゲームの日課を回したり
仕事では営業からの無茶ぶりで早速いろいろとプレゼンしたり説明したりと、
私生活でも仕事でも、今までと同じ日常を取り戻した。

私ってレジリエンシー高いなと改めて驚くし、流石のワイフもリモートミーティング中にスマホゲーしている私を見て
「全く変わらない同じじゃん!」と驚いていた。

ただ、これから5年後10年後15年後に同じ会社でリストラにあわず働いて収入を維持できるかについては以前より楽観的ではなくなった。
以前も楽観的ではあまりなかったんだけど、流石にあれは事故みたいなものだよ。でも事故は残念ながら起こるよね。
だから色々と考えておかないとなーと将来の準備をはじめることにした。

あと、今のところ以前より仕事はたのしくなっていた。おもしろく不思議なもんだ。

リストラになって再就職しました【文学フリマ東京37 ずっとVACATION : I-19】

こんにちは
タイトルの通り、リストラになり人生奈落の底に落ちましたが再就職して、また同じような日常に帰ってきました。

リストラされてから再就職までの葛藤や感想についてはまた別の機会にブログに書きたいのですが、未来の自分用にとそれまでの日々を綴った日記の抜粋をまとめた、日記本(コピー本)を文学フリマにて出品することになりました。
タイトルは
外資系IT企業から突然リストラされ無職になったオジサンがオファーを得るまでの日記
です。

実はうちのワイフが「ずっとVACATION」というサークル名にて『朝に追いつくまで』という日記本を出品するのですが
それに相乗りする形で出品します。
本当はブログに赤裸々に描きたかったのですが、内容が個人的かつ外に出すのは憚られる内容だったので、今回限りのコピー本という形にしました。

もし都合と興味があいましたら、手に取って笑ってあげてください。

一部300円を予定しています。

よろしくお願いいたします。

可能性と安定した生活の話

ブログを書いても誰にも届かないと思いつつ書いているのは、案外自分には届いているからかもしれない。

昨日、若者と話して可能性と安定した生活について思い至った。
その若者は私からも別の方からみても優秀で可能性があるが、本人は将来のことなどで悩んでいた。
彼の目標にやりたいことは何なのだろうと思う一方で、様々な不安があることは容易に想像できる。
例えば夢や目標のために進んだとして将来的に、安定して自立した生活が送れるのかという不安が滲み出ていたように感じた。

可能性という点において、オジサンになると「まー私はこんなものだったのかな」という部分と、私だったら今後頑張ればこれくらいなら達成できるかもなというポイントが想像できてしまえるようになってしまう。この年齢までに経験して努力して達成できた現時点と、そこからの将来像をイメージしやすい。それは若いころの自分にはなかった視点だ。若いころの私は、どんなコストをかけてでも目標を達成したい、自分ができるとか能力があるとかはそんなことは一切顧みず考慮せず構わず向こう見ずに飛び込んだ。それで上手くいったことも、いかなかったこともある。

子供の頃は自分の将来なんてなんとなく楽観的にしか想像できなくて
ちょっと大人の若者になると将来に対してどんどん驚くほど悲観的になって
いまオジサンになった私は、その若いころに想像すらできなかった将来の私になってしまったオジサンである私は、将来に対して特に若者のような不安はない。*1

そう、若者のように将来に対する漠然とした、しかし確実に今ここにある不安という類のものはないけれど
その一方で若者にはない安定というものはある。ただ可能性と時間はない。本当にない。
いや、違った。違う、そうじゃないだろう。安定を捨てれば可能性も時間もある。若者ほどではないにしても、ある。
捨ててしまえればの話だけど、この安定を捨ててまで追い求める可能性か?と考えるや否や、自分の今までの人生や努力に能力を顧みて、その選択肢は驚くほど簡単に圧し折られる。
ある程度の安定した場所を確保したオジサンは、将来の可能性を簡単に圧し折ることができる。
可能性と安定は互いに互いに相容れずに求める脂肪分とオジサンのような関係なのかもしれない。

その一方で安定のない若者は、将来の可能性に飛び込んで決断するしかない。決断するしかなかった*2
安定を求めていなくても、そこでは安定しているであることを前提とした将来を求めている。成功するというのは、往々にしてそうした前提を含意する
将来の可能性がたくさんある若者は大変だ、押しつぶされそうな自由と複雑性の刑に処されている*3

ただ成れの果てであるオジサンとしては、自分を納得させる人生を歩むことができたのか。それは大切な問題だ。どういった視点・観点から自分の人生を見つめるのかが大切だ。
私はある点においては、これ以上より人生を上手く回せなかった感覚はあるので、その点では納得しているのだけど、これから私はなにを目標にしたらいいのかが分からなくて泣いている。

*1:今の仕事や年収が失われて生活が不安定になったらどうしようという不安はあるが、その一方でキャリアもあるため会社をクビになっても全てが失われることはないだろうという漠然とした楽観主義もある

*2:決断しないでいた私は院卒無職という地獄に落ちた

*3:かと言って我々オジサンがなにかアドバイスできることなどないのだが

うそ!?これって第二の思春期(中年の危機)?~中略~...その3:どーみても危機じゃなかった

中年の危機と呼ばれるような状態だったが、一人旅して自分を再発見したら治まった。
私と似たような状態に陥るかもしれない他のオジサンたちのためにも、メモを残しておく

  • 中年の危機とはなにか、

私も自分に訪れたこの何とも言えない不安感、客観的にみてどこに不安や欠乏があるのかという状態なのに、
この感覚はなんなのだろうと色々と考え探していたところ、いわゆる中年の危機というものに近いことがわかった。

中年の危機とは端的にいってしまえば、人生の転換点のひとつである。
様々な変化にともなうアイデンティティの再編・再構築、またアイデンティティの更新・変化にともなう不安感や欠乏感といったものだ。

「私の問題」としては、上記の定義がしっくりくる。つまり、私は人生の転換点を迎えていると私自身理解した。その理解によって合点がいき、なんとなく胸にあった夏の霧のような不安感は打ち払われた。(だいぶ端折っているけど、オジサンの心境のあれこれを書いても仕方がないだろう)

  • なぜ中年の危機が訪れたのかについて

一つにはTwitterをやめたことだろう。15年程度ずっと同じひとつのアイコンでIDでTwitterに毎日いた。
インターネットの故郷として、自分の居場所として生きてきたのを突然やめたのだ。故郷を捨て自由で気ままに不安定な存在になったのは間違いなく原因のひとつだろう。
次に仕事の変化も恐らくある。今年に入って社内転職をして今までの仕事からの延長ではあるが、役割が一つ二つ上の責任を伴うものに変化したのも、どうしようもなく原因になるだろう。また、それに伴って働き始めたころの労働者としてのひとつの目標を達成してしまったこともあるのだろう。

夢というものが夢に終わって、いくつか持っていた目標は達成してしまったことによる欠乏感と、これからどうしたらいいのか分からないことによる不安感と、私はなにものなのか/だったのかというアイデンティティの揺らぎ
これらが複合的に起因して、いわゆる中年の危機と呼ばれる状態に陥ったようである。春から夏にかけての間だったのは、偶然だろうか。

ただ私的体験としては、そこまで危機という感覚はなかった。躁鬱抑鬱的な兆候もなく、カウンセリングが必要な落ち込みといったものも一切なかった。
ブログで以前書いたように、自分とは何者であったか?誰なのか、どういう人間なのか。が眩暈のように一瞬分からなくなったくらいである。
https://sebastianus.hatenablog.com/entry/2023/07/09/213054

これに関しては既に答えは出ているが、未来に対しての答えなんか出切るはずもなく。単純にこれから再構築し、残りの余生を生き抜くだけである。これから私はどうやって生きていくのかという途方もないことを考え、ちょっと目をまわしてしまったらしい。
https://sebastianus.hatenablog.com/entry/2023/07/23/180941


  • どうやって抜け出したのか

私の場合は、こうしてブログを書いて自分と対話を重ね、自分の好きなように縛られない一人旅をして、そこで自分と対話し思い出す・再発見したことによって問題でなかったような問題だったものとして、私の中で軽くなった。

表に出してこそいないけど、自分との対話を数週間かけて数万字程度のメモとして対話した。
日常から離れた、ただ自分が好きなもののためだけの旅をしたのもよかった。日常とワイフから切り離された旅に身を置くことによって、随分と素直に自分との対話を進めることができた。

一人旅とブログは心身の健康にいい。
あとBlueskyを第一言語である日本語ではなく英語に限定しているのも功を奏している。いたずらに自分の考えを吐き出すだけのTwitterと同じ運用にせず、ブログという形としてまとめることにしたのは賢い選択だった。

なんというか、分かっていたことだけれど私は凡庸で適応力がありタフらしい。と認めなければならない。

うそ!?これって第二の思春期(中年の危機)?~中略~...その2:私は何のために生きようとしていたのか

先週の三連休、私は自分探しの旅というわけではなく、珈琲を飲みに鶴岡へ行った。*1
ただ珈琲を飲みに行くとはいっても片道5時間程度はかかり時間に余裕があるので、買い損ねたサンドイッチにクソ不味いアイスカフェラテを伴に車内でピンチョンの『ブリーディングエッジ』を読んだり、インターネットに繋がれていないクリアなPCを立ち上げて、旅先でいけ好かない自分との対話をした。

訓練されたビジネスパーソンはIssueよりはじめて結論から述べる。
私もその作法に則り、今回は結論から述べることにする。

私はなにを求めていたのか。なんのために生きようとしていたのか。
私は自分を手に入れたかった。
私は、ただ自分から零れ落ちるものだけのために生きたいと思い、ただありのままの自分だけのために生きようとした―それを忘れ見失いなにか大きなものへ逃げてしまった。

高校一年生の初冬、上大岡の京急百貨店で私はヘルマン・ヘッセデミアン』の冒頭の一説に遭遇した。
「ぼくはもとより、自分のなかからひとりでにほとばしり出ようとするものだけを、生きようとしてみたにすぎない。どうしてそれが、こんなに難しかったのだろう」
原文は"Ich wollte ja nichts als das zu leben versuchen, was von selber aus mir heraus wollte. Warum war das so sehr schwer?"*2
この一説に出会った瞬間にわけもわからず涙が溢れ目を赤く腫らしてレジに駆け込んで、なにがなんだかいまいち理解できないけれど、これはすごいものだと感動ーこの一言では言い表せないほど私の人生に衝撃をあたえた。

私は自分のなかから自然と溢れ出るものだけのために生きたかった。私以外のほかのものはいらなかった。

自分と対話して、これに気づいた帰りの電車内で思わず笑ってしまった。そうか、私は16歳の頃に出会った思いのために生きていこうとしていたんだな。と気づいた。
そして車窓に映る今のしゃらくさいオジサンになってしまった自分に問い聞いてみた「お前は今、自分らしく自分から自然とほとばしるもののために生きているか」と。それに対して窓に映った私は「まー自分らしくって使い古されたPOPミュージックみたいな表現にはちょっと引っ掛かるけど、うん、自分らしく生きられてるんじゃないか。自分に嘘ついて生きていないよって、気負わずいえるよ」という回答がとても素直にリラックスして肩ひじ張らず夏山に吹く風のように返ってきた。

あぁ、私はあの頃、涙を流してがむしゃらになって追いかけたものを、もう既に手に入れてしまっていたんだなと分かった。
むかつく大嫌いな醜い自分を全部壊したくて全部殺したくて頭を振り回し叫んで貧乏揺すりしながら音楽を聴き勉強をして古着屋を回って図書館の本を読み漁って、いつの間にか

意味がなくなってしまった人間は、ただ残りの人生を余暇として楽しむか死んでしまう以外に道はない。もしくは次へと繋がるため尽くすしかないのだろうか。なんて若いころは真剣に悩んでいたことを思い出した。

今の私はなにかしたいことがある?仕事はしたくない。これから、どう生きようか。やりたいことは、そんなに思いつかない。

*1:コフィアの珈琲は期待以上に美味しかった。特にハラールモカとブラジルが美味しかったしっかりと焼けているのに真っ黒くない。味の印象としては、なんといっても後味だ。後味が9割といってもいい。珈琲を飲んだ瞬間はスッキリとしていて、後味がぼわーーっと口の真ん中に広がり鼻腔と舌の奥と喉の曲がり角のあたりをくすぐり漂う。上顎に甘さがひろがり、そこに甘さが広がって後味の余韻が気持ちよく残ってくれる。口の中に幸せな珈琲の余韻が漂うんだ。豆はそれはもうクッキリときれいにカラっと焼けている。そう、しっかりと火が入って焼け切っているのにドライ、乾燥している。ジトーっとしていない染み出して滲みだしてくる、大坊系統のような深入りではなく、あくまでカラっとした後味が醍醐味の美味しい珈琲だった。私はかなり好き。とても好き。なにより重くなくカラとして飲みやすいく美味しいので、甘いお菓子とも合うし。芯まで火がはいって豆の中に風が吹いている初夏の梅雨前の青空のような珈琲で大好きな珈琲だった。あーーもっと早くいけばよかった。豆を買ってわかったけど、体積に比して軽いので、相当に水分を飛ばしている

*2:いまドイツ語をちょっと触ったあとでは、この岩波訳は、ちょっと仰々しいなとおもうけど