どうして惣流・アスカ・ラングレーが好きな人間は、自分がアスカが好きであることを宣言しないではいられないのか。
佐川恭一による大江健三郎追悼文gendai.media
を読んでいると突然ほとんど無関係に自分がアスカが好きであり、いかに好きであったのか語られていた。
これは私を殺しにきていると感じたので、このブログを書く。
俺のほうがアスカが好きであり深く大きく愛しているのは争うまでもないことではあるが、
なぜアスカに恋したことのある人間は自分がアスカ派であったことを語らないではいられないのだろうか。
自分がアスカを好きであったことを、なにか誇りのようにしているところがある。おまえにはあるか、私にはある。
自分がレイでもミサトでもなく、アスカが好きだったことになにか矜持を持ってしまうのだろうか。
アスカという、人間の歴史上で最も愛おしいキャラクターを愛している。
でもそればかりではない何か薄汚い邪な感情が思惑があるのではないか。
自分が主流派でなく、自分の若いころは分かりやすく付和雷同的な人間ではなく、自分というものを持った人間であったと誇示するために、
そのためにアスカを道具として
ブランド品のように他者との差別化のためにアスカを使ってしまっているのではないかと苦悩してしまうときがある(ごめん読み終わって改めて考えるとそんなことなかった)。
自分が何かを好きであると宣言する時、切り離せないなにかがある。
でも、そのなにかに恐れ怯えて口を閉ざすのではなく。私は言葉にしていきたい。
私は惣流・アスカ・ラングレーを愛している。たとえ庵野秀明に汚されても私の愛は傷つかない。